2010年2月18日木曜日

習慣4-5「共に生きること」Ⅰコリ3章 詩篇1篇 ロマ12章

現在、私たちは「交わり」について学んでいます。でも、もうお気づきの方もいるかもしれませんが、それは「そもそも教会とは、どのような共同体なのか」ということに直結しているのです。私たちは、この世の中で生活しています。また、救われる前にはその中にどっぷりつかっていました。ですから自分でも気付かないうちに、この世の基準で教会を見てしまっていることがあるのです。もしかしたら長年教会に通っている人も、教会に対する間違ったイメージを持ったまま歩んでいるかもしれません。そういった小さなボタンの掛け違いが、ある時、些細な出来事をきっかけに噴出し、教会を揺るがす大問題になってしまうこともあるのです。

度々紹介する、コリント教会の問題がそうでした。彼らはめいめい勝手に「私はパウロにつく」「私はアポロに」と叫んでいました。しかも彼らはみな正義感にあふれて、絶対に自分は正しいと信じて、そう叫んでいたのです。だから教会の問題は根が深いのです。そんな彼らにパウロはこう書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Ⅰコリ3:5-7)。この言葉より私たちは「そもそも教会がどのような共同体であるか」を知ることができます。

教会とは「そもそもチームワーク重視の共同体」なのです。パウロは「主がお与えになった分に応じて」と言いましたが、私たちにはそれぞれ、異なった賜物が与えられているのです。優劣ではありません。なのに、お互いに比べて、ねたみ合ったり、非難し合ったり、誇り合ったりするのは、何と愚かなことではないでしょうか。「ただ分に応じて」キリストとキリストのからだに仕えることが大切なのです。聖書には「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と勧められています(ローマ12:5-10)。

また教会とは「そもそもバトンタッチの共同体」です。教会はそのようにして2000年間受け継がれてきました。牧師でも信徒でも「自分がいなくなれば、この教会はダメになる」と立場や奉仕を握りしめてはいけません。それは不健全な姿です。もちろん、無責任に奉仕を投げ出せばよいといっているのではありません。私たちは任された期間、精一杯、熱意をもって主に仕えるのです。しかし、それを握りしめず、常に後任を探し求め、育成し「責任を持って譲っていく」という努力も大切なのです。ましてや人が、自分の奉仕を奪うなどと、危機感を持つべきではありません。喜びなさい!それは、もともとあなたのものではないのですから。

教会とは「そもそも主を中心とした交わり」です。もちろん働き人は大切です。御言葉を教える人、奉仕する人、役員をする人が教会には必要です。しかしもっと大切なのは「成長させて下さる神」なのです(Ⅰコリ3:7)。この神様を中心とした教会を形成するのでなければ、その教会は「木、草、わら」で立てられた教会ではないでしょうか(12)?私たちが、教会において何かを成し遂げたとしても、すべての栄光は、主にのみささげるのです。その姿勢が聖い教会をたてあげます!

あなたはいつの間にか、働き人に依存していませんか?その人がいなくなれば、自分の信仰がダメになると思っていませんか?またあなたはいつの間にか、奉仕に依存していませんか?その奉仕がなくなると、自分の信仰がダメになると思っていませんか?もしもそうならば、余分なものを主に明け渡し、水路に植わった一本の木になりなさい。ただ主ご自身を喜んでいた、初めの愛に戻りなさい。そうすることによって、あなたは本当の意味で主の栄光を輝かせる、恵みに溢れた、聖いしもべとなることができるのです。

まことに、その人は
主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。

詩篇1篇2~3節

2010年2月4日木曜日

習慣4-4「共に生きること」 ローマ14章 ガラテヤ6章

私たちは今、クリスチャンの交わりについて学んでいますが、それがどのようなものなのか、ヨハネの手紙第一1章7節に良く記されています。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。クリスチャンの交わりは「聖い交わり」です。もし私たち一人一人が「光の中を歩んでいるなら」そして「そういった者同士が交わりを共にするなら」御子イエスの血が、ますますその交わりを、内側から聖めて下さるのです。

クリスチャンの交わりの原則は「さばき合わないこと」です。もしも私たちの交わりが、聖霊によって完全に支配されているならば、そこには「霊的な自浄作用」が働いているのです。ですからあなたがあえて罪を指摘しなくても、主ご自身がその人に罪を悟らせ、悔い改めに導いてくださるのです。私たちにできるのは、人をさばくことではなく、むしろ最初から人が躓かないように「躓きになるものを置かないこと」です(ロマ14:13)。つまり、聖書から出ていない、自分達の伝統やしきたり、暗黙の了解や勢力図など、余計な事に友を巻き込むなということです。

また「あなたのためだから」という善意の押しつけは控えましょう。私たちの熱心は、時に「自分が正しいと思うこと」を人にもおしつける「お節介」や「過干渉」となって現れます。しかし気をつけて下さい。それもあなたの「支配欲」です。それによってあなたは、本当にその人を育てたいのではなく、いつまでも自分の助けを必要とする「無力な子供」としておきたいのです。しかし主は言われます。「このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです(ロマ14:4)」。すべての聖徒は主のものです。過干渉、お節介は慎みましょう。

しかし現実問題として、交わりには色々な事が起こります。時には、自浄作用が働かず、兄弟姉妹が罪にとらわれていることもあるでしょう。また、一人では立ち上がることができず、助けを求めている兄弟姉妹がいるかもしれません。それでも、主が直接に語りかけられる事を待つべきでしょうか?それでもお節介を控えるべきなのでしょうか?いいえそんな事はありません。主は、私たちが「助け合い」「赦し合い」「愛し合う」ことを望んでおられるのです。ただし「正しい心で」です!どんなに良い事でも「正しい心」から出ていなければ、それは有害です。

正しい心とは、第一に「柔和な心」です。本当の意味で人を変えるのは「愛」です。厳しく非難し、叱ることにも、一定の効果はあるかもしれませんが、根本的な解決にならず、交わりに「しこり」を残してしまいます。そもそも、私たちは「同じ主のしもべ」ではありませんか。私たちに、兄弟姉妹を叱る権利はありません。あくまで兄弟姉妹の一人として「愛を持って、柔和に諭す」に留めるべきです。もし、それができなければ、むしろ黙っているべきです。また自分の手に負えない時には、隠さず、教会(牧師と役員会)に告げる事も大切です(マタイ18:17)。

また第二に、正しい心とは「謙遜な心」です。まるで自分が神様のようになって、人をさばいていてはいけません。聖書には「誰でも立派でもない自分を、何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです(ガラ6:3)」とあります。立場が変われば、自分も同じような誘惑に陥ってしまうかもしれないのです。そういう同じ目線に立って、互いの重荷を負い合っていくことが大切なのです。

交わりとは「互いの重荷を負い合うこと」です。交わりの中で、あなたは人を助け、人に助けられます。また人を許すだけではなく、人に許されます。そうして、先の者が後になり、後の者が先になるのです。◆シスター渡辺和子は「愛することは、許されること」と表現しました。そういう生きた交わりの中で、キリストの愛の律法は全うさるのです。

互いの重荷を負い合い、
そのようにして
キリストの律法を全うしなさい。
(ガラテヤ6章2節)

2010年1月28日木曜日

習慣4-3「共に生きること」 エゼキエル13章 エペソ2章

前回の学びの冒頭、私たちは詩篇133篇の御言葉を読みました。そこにはこんな交わりの姿が描かれていました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである(1,3)」。私たちは、誰もがそんな「交わり(共同体)」を求めているのではないでしょうか?そこに集うことによって、本当に心満たされ、胸おどり、いのちを経験したいのではないでしょうか?そのような交わりは、どのようにして生まれるのでしょう?

人の努力によってでしょうか?崇高なビジョンをかかげた、カリスマ性のある人が、熱意を持って行動を起こせば、そのような理想的な交わりが実現するのでしょうか?そのような努力によっても、一時的で熱狂的な何かが生まれるかもしれません。しかしそのような運動がたどる末路はだいたい似ています。最初のうちは純粋な理想を掲げているのですが、その中心人物が権力をもった瞬間、その人物の影響力を保つための共同体となってしまうのです。そこに本当の「自由」と「平和」はなく、あるのは「恐怖」と「支配」です。理想の根底に欲があるからです。

現代の教会でも、似たようなことは起こります。その人とっては、自分の「やり方」や「経験」そして「理想」こそが「神」なのです。そして自分の理想を中心とした教会を立てようとするのです。思い通りにならないと「この教会はなってない」「あの人(たち)は何でこう考えないんだ」と兄弟姉妹さばき、自分自身も喜びを失っていきます。気をつけて下さい。それは「支配欲」です。そういった「人間的な理想」は、共同体を「破壊」します。困ったことに、本人がそれに気づくことはなかなか難しいのです。本人は「純粋な理想」だと信じているのですから。

しかし反対に「理想がない」ことも問題です。今日読んだエゼキエル書にはこうありました。「実に彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう(10)」。この「彼ら」とは当時の預言者たちのことです。彼らは民にへつらい、本来は悔い改めを迫るべきところで「そのままでいいんだよ」と気休めをいい、危機が迫っていても「大丈夫だ」と預言していたのです。その「平安」は、まるで表面だけを「しっくい」で塗り固めた「壁」のようです。その内側は、もろく罪にまみれていました。

イエス様は、そのような偽りの平安を崩されます!マタイ福音書にはこうあります。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです(34)」。これはイエス様が、むやみに争いを起こされるという意味では決してありません。そうではなく私たちが、もし偽りの平安に安住しているならば、イエス様はその「平和」を崩され、私たちを本当の平和へと導いて下さる、という意味なのです。

本当の平和はどこから来るのでしょうか?それはイエス・キリストからです。エペソ書には「キリストこそ私たちの平和である(2:14)」とあります。また「敵意(罪)は十字架によって葬り去られ、キリストは平和を述べられました(2:16:17)」とも記されています。私たちは、十字架の赦しを体験することによってのみ、本当の平安を体験することができます。そして赦された者として、自分の十字架を負い、神と人とに仕えていく時、本当の意味で、平和をつくる者とされるのです。

一度塗り固めた「人生のしっくい」をめくることは、一度固まった「かさぶた」をめくるようなものです。それには痛みが伴います。時には、自分の意に反して、めくられてしまうことがあるかもしれません。しかしそこに「本当の癒し」と「平和」があるのです。

実に、彼らは、
平安がないのに『平安』と言っている。
しっくいで上塗りする者どもに言え。
『それは、すぐはげ落ちる』。
キリストこそ私たちの平和である。
(エゼキエル13:10-11、エペソ2:14抜粋)

2010年1月22日金曜日

習慣4-2「共に生きること」 マルコ 9:30-37

前回から「霊的成長をもたらす4つの習慣」の最後の習慣を学んでいますが、そのタイトルにもなっている「共に生きること」は、主の御心の中でも、最上位に属する事柄です。イエス様は私たちに、神を愛することと同時に、隣人を愛することを求められます。信仰とはきれいごとではありません。それは現実の生活の中で、隣人を愛することによって完成するのです。ですからイエス様は、そのことを学ぶために、信じる者たちが「信仰による共同体」を形成する事を求められます。イエス様ご自身も、弟子を訓練するにあたって、12人を選び、彼らといつも一緒に住み、御言葉を教えられました(マコ3:13)。人は交わり中で、「生きた信仰(いのち)」を学んでいくのです。

信仰の成長(成熟)には忍耐と時間が必要です。未熟な信仰とは、いくつかの言葉で定義できますが、その一つに「自分が何者であるのかわからない状態」ということができるでしょう。この時の弟子たちが、まさにそうでした。彼らは互いに「誰が一番偉いか」と論じ合っていましたが、実のところ彼らは、まだ何も分かっていなかったのです(マコ9:19)。例えばイエス様が「人の子は人々の手に引き渡されて、彼らはこれを殺す。しかし三日目によみがえる(30)」とご自身の十字架について真剣に語られているのに、彼らはそれを理解できず、ただ恐れていました。そして「誰が一番偉いか」という呑気な議論に明け暮れていたのです。

イエス様に「道で何を論じ合っていたのですか(33)」と尋ねられた時、彼らは黙ってしまいました。さすがの彼らにも、それが「さもしい議論」であることが分かったのでしょう。でもこれは人ごとではりません。私たちも、何者でもないのに「誰が一番偉いか」「誰が一番正しいか」などと、さもしい議論に走っていることはないでしょうか?口には出さなくても、心の中でそう感じていることはないでしょうか?人に何かを言われた時「あなたには言われたくない」と思うことはないでしょうか? それは結局「自分の方が上」だと思っているからではないですか?

交わりを破壊する思い、それは「誰が上か」との考えです。そう考え出したとたん、私たちの間には対立が生まれます。そして詩篇133篇に描かれている「麗しい共生」は、たちまちに打ち破られるのです。コリント人への手紙第一の中には、そのような悲しい状態に陥った教会の姿が記されています。彼らはめいめいに「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言い争い、誰が一番偉い、誰が一番正しいと、いがみ合っていました。でも彼らは肝心な事を忘れていました。教会は主のものであり、主の前に、自分達は何者でもないということを。そしてパウロやケパもその主のしもべにすぎないという事を、です。

そんな彼らにイエス様は教えられました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい(35)」。イエス様は「人の先に立ちたい」という思い自体を否定されませんでした。そこまで否定する時、おかしな禁欲主義になってしまうのでしょう。そこでイエス様は、もしそう願うなら「みなに仕える者となりなさい」と教えられたのです。そして子どもを呼び寄せ、この幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる。またわたしを受け入れる者は、神を受け入れると、教えられました。

己の身を低くしなさい。人に仕えることは、恥ずかしい事ではありません。人を赦すことは、損をすることではありません。新しい人を受け入れることは、自分の居場所を失うことではありません。他の人が自分よりも祝福される事は、自分がみじめになることではありません。◆ 思い切って、人を受け入れ、人に仕え、人を赦し、人を祝福する時、あなたは本当の意味で、十字架にまで従われた、イエス様を心に受け入れているのです。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、
みなのしんがりとなり、
みなに仕える者となりなさい。
マルコ9章35節

2010年1月20日水曜日

習慣4-1「共に生きること」 マルコ12:13-34

年も改まり、いよいよ「霊的成長をもたらす4つの習慣」の4つ目(最後)となります。それは「共に生きること」です。イエス様は「熱いか、冷たいか、どちらかであってほしい(黙3:15)」と言われましたが、それはまず「霊的(信仰的)に冷たく」あっては欲しくないということです。しかし「熱ければ良い」というものでもありません。的外れな熱心さほど、神様の御名を汚し、人を傷つける者はありません。戦争はいつも、間違った熱心さから生まれます。大切なのは、まずは正しく理解(しようと)すること。そしてそれを行動に移し、日常の生活の中で習慣化していくことです。そうすることによって、私たちの信仰は、本当の意味で熱く、成熟した者となるのです。

パリサイ人、ヘロデ党、そしてサドカイ人の熱心さは、的外れでした。イエス様は彼らに言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか(12:24)」。これはサドカイ人に言われた言葉ですが、パリサイ人、ヘロデ党も同じです。彼らは確かに熱心でした。パリサイ人は律法尊守において熱心で、サドカイ派やヘロデ党は、政治的に熱心でした。そして彼らは、いつも、律法の解釈論争に明け暮れ、それぞれの立場を主張しあっていたのです。しかしそんな彼らが、今日の箇所ではイエス様を「陥れるために(12:13)」結託し、手を取り合って、論争を吹きかけているのです。なんと滑稽な姿でしょうか。

彼らの熱心さは、どこから出ていたのでしょう。まず一つは「間違った動機から」です。彼らは、非常に、宗教的に熱心なようでありながら、実は、ユダヤ教の主導権争いをしていたのです。ですから、そのためだったら(その主導権をイエスが奪おうものなら)手を取り合って協力し、イエス様を攻撃したのです。そしてもう一つは「間違った信仰理解から」でした。彼らはイエス様が言われた通り、聖書の言葉を知っていましたが、理解していませんでした。自分に都合のよい良いうに理解し、自分の義を立証し、他人を攻撃する道具としていたのです。そして何よりも彼らは、イエス様が「どなたであるか」を全く理解していませんでした。

それに対して、最後に一人の律法の専門家が立ちました。彼は、やり取りの一部始終を見聞きした上で、イエス様にこう質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか(12:28)」。裏を返せば、イエス様があまりに見事にこたえられるのを聞いて「この方なら『一番大切なこと』を知っておられると感じた」ということです。これこそ、聖書を読む正しい態度です。自分の知識をひけらかすためではなく、他人を攻撃するためでもなく、神様のみこころ(一番大切なこと)を知りたいと切に願い、主ご自身を慕い求め、へりくだって読むのです。

イエス様は、その問いに対して、こう答えられました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません(12:30-31)」。神様を愛することは、もちろん大切です。しかし、それは「あなたの隣人を、あなた自身のように愛する」ことにおいて完成するのです。この二つは表裏一体であり、切り離す事はできません。

あなたの信仰は、みこころにかなった信仰でしょうか。あなたの熱心さは、本当に神様への愛から出ていますか?それとも、自分の祝福のためや、自分のよい評判のためでしょうか?◆またあなたの熱心さは、隣人への愛となって実を結んでいるでしょうか?いつの間にか、あなたの信仰は、独りよがりになっていませんか?どうか私たちの信仰が、主への愛から生じ、隣人への愛と向かいますように。

イエスは彼が賢い返事をしたのを見て
言われた。
「あなたは神の国から遠くない。」
マルコ12章34節

2009年12月12日土曜日

習慣3-3「与えること、捧げること」 マラキ12:1-8

今回は「与えること、捧げること」の最終回ですが、特に「十一献金」について教えられたいと思います。ある人は、この十一献金の話をすると「教会もお金かぁ」といって躓きます。しかしある人は、聖書にそう書いてあるという理由だけで、人知れずそれを実行しています。そう考えると、これは従順における一つの試金石なのだと思います。聖書には「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです(ヨハ14:15)」 とあります。愛とか、信仰とは、何でしょうか?言葉でないことは確かです。結局、主と主のからだ(教会)とを本当に愛しているかという問題なのです。

そもそも十一献金とは、どこからきているのでしょうか?多くの人は、モーセの律法からだと思っていますが、そうではありません。その起源は、信仰の父アブラハムまで遡ります。アブラハムは祭司メルキゼデクに「すべての物の十分の一」をささげました(創14:20)。またヤコブは、石を枕にしたあの荒野で「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守る…」との契約を授けられました。その応答として、ヤコブは「すべて、あなたが私に賜る物の十分の一を、私は必ずあなたにささげます(創28:22)」と誓願を立てたのです。つまり十分の一は、神の民が始まって以来、受け継がれてきたDNAなのです。

そしてモーセがそれを正式な律法としました。申命記にはこうあります。「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。…あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために(14:22-23)」。
律法は、よく誤解されますが、ただの義務ではなく、そこには意味があるのです。律法主義の間違いとは、その意味を見失い、行いだけが強調されることです。そしてこの十分の一に込められた意味と目的とは「あなたの神、主を恐れることを学ぶため」です。ですから、これは子供の頃から教えられるべき事柄なのです。

つまり、十分の一を惜しむとは、主への恐れがないのです。同じ申命記には、こんな言葉もあります。「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに、富を築き上げる力を与えられる(からです)。8:17-18)」。そもそも「これは全部、私ものものだ」と思っているから、惜しくなるのです。しかし、その考え自体が傲慢なのです。私たちに「富を築き上げる力」を与えて下さるのは神様です。そういった感謝を形にして、十分の一をささげるのです。

しかし、やっぱり十分の一というのは、旧約時代だけの基準なのでしょうか?いいえ違います。イエス様は確かに「正義、憐れみ、誠実」といった、心の問題の方が大切だと教えられましたが「十分の一もおろそかにしてはいけません(マタ23:23)」とはっきり教えられました。つまりイエス様は、律法を無効にされたのではなくて、律法以上の事を教えられたのです。律法以上の事とは、機械的に十分の一を捧げるのではなく、心から、喜んで、豊かに捧げることなのです(Ⅱコリ9:6-8)。

アナニヤとサッピラは反面教師です(使徒5:1-10)。彼らは確かに地所を売り、多額の献金をしました。しかしそこには、主への恐れも、感謝も、誠実もなかったのです。彼らは「これで全部です」といい、神と人を欺いたのです。私たちも、もし「これで十分の一です」と言いながら、その一部を手元に残しておくなら、彼らと同じではありませんか。◆貧しいやもめに倣いましょう(マコ12:41-44)。彼女にとっては、十分の一とか、そんな数字はどうでもよいことでした。ただ心から、神様に感謝の心を表したかっただけなのです。イエス様は、彼女の信仰を称賛されました。額の多少ではなく「心」です!ただし行いの伴った心なのです。

ひとりひとり、
嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めた通りにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
Ⅱコリント9:7

習慣3-3「与えること、捧げること」 マラキ12:1-8

今回は「与えること、捧げること」の最終回ですが、特に「十一献金」について教えられたいと思います。ある人は、この十一献金の話をすると「教会もお金かぁ」といって躓きます。しかしある人は、聖書にそう書いてあるという理由だけで、人知れずそれを実行しています。そう考えると、これは従順における一つの試金石なのだと思います。聖書には「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです(ヨハ14:15)」 とあります。愛とか、信仰とは、何でしょうか?言葉でないことは確かです。結局、主と主のからだ(教会)とを本当に愛しているかという問題なのです。

そもそも十一献金とは、どこからきているのでしょうか?多くの人は、モーセの律法からだと思っていますが、そうではありません。その起源は、信仰の父アブラハムまで遡ります。アブラハムは祭司メルキゼデクに「すべての物の十分の一」をささげました(創14:20)。またヤコブは、石を枕にしたあの荒野で「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守る…」との契約を授けられました。その応答として、ヤコブは「すべて、あなたが私に賜る物の十分の一を、私は必ずあなたにささげます(創28:22)」と誓願を立てたのです。つまり十分の一は、神の民が始まって以来、受け継がれてきたDNAなのです。

そしてモーセがそれを正式な律法としました。申命記にはこうあります。「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。…あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために(14:22-23)」。
律法は、よく誤解されますが、ただの義務ではなく、そこには意味があるのです。律法主義の間違いとは、その意味を見失い、行いだけが強調されることです。そしてこの十分の一に込められた意味と目的とは「あなたの神、主を恐れることを学ぶため」です。ですから、これは子供の頃から教えられるべき事柄なのです。

つまり、十分の一を惜しむとは、主への恐れがないのです。同じ申命記には、こんな言葉もあります。「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに、富を築き上げる力を与えられる(からです)。8:17-18)」。そもそも「これは全部、私ものものだ」と思っているから、惜しくなるのです。しかし、その考え自体が傲慢なのです。私たちに「富を築き上げる力」を与えて下さるのは神様です。そういった感謝を形にして、十分の一をささげるのです。

しかし、やっぱり十分の一というのは、旧約時代だけの基準なのでしょうか?いいえ違います。イエス様は確かに「正義、憐れみ、誠実」といった、心の問題の方が大切だと教えられましたが「十分の一もおろそかにしてはいけません(マタ23:23)」とはっきり教えられました。つまりイエス様は、律法を無効にされたのではなくて、律法以上の事を教えられたのです。律法以上の事とは、機械的に十分の一を捧げるのではなく、心から、喜んで、豊かに捧げることなのです(Ⅱコリ9:6-8)。

アナニヤとサッピラは反面教師です(使徒5:1-10)。彼らは確かに地所を売り、多額の献金をしました。しかしそこには、主への恐れも、感謝も、誠実もなかったのです。彼らは「これで全部です」といい、神と人を欺いたのです。私たちも、もし「これで十分の一です」と言いながら、その一部を手元に残しておくなら、彼らと同じではありませんか。◆貧しいやもめに倣いましょう(マコ12:41-44)。彼女にとっては、十分の一とか、そんな数字はどうでもよいことでした。ただ心から、神様に感謝の心を表したかっただけなのです。イエス様は、彼女の信仰を称賛されました。額の多少ではなく「心」です!ただし行いの伴った心なのです。

ひとりひとり、
嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めた通りにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
Ⅱコリント9:7