2009年8月13日木曜日

習慣2-1 「祈り ~間違った祈り~」

私たちは今まで「霊的成長をもたらす4つの習慣」の、第1の習慣である「みことば」について学んできました。本当はもっと語りたいこともあるのですが、この辺で第2の習慣に移りましょう。第2の習慣は「祈り」です。今日はその第1回目として、特に「間違った祈り」について学びたいと思います。

まず挙げられる、間違った祈りは「偽善者の祈り」です。聖書にはこうあります。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです(マタイ6:5)」。これは言いかえると「自己顕示のための祈り」であるともいえます。「会堂や通りの四つ角」は最も人の目に触れる場所です。そのような場所で、手のひらを上にあげ、頭を下げて祈ることによって、彼らは人からの称賛を求めていたのです。

そういう人々は「敬虔を利得の手段」としているのです(Ⅰテモテ6:5)。自分が熱心で、敬虔であることを、周囲の人々にアッピールすることによって、人々からの尊敬を求めているのです。もしかしたら、そういう人は、その「演技」によって、望みの物を得ることができるかもしれません。しかしイエス様は「そういう人々が、生ける真の神様から称賛を受けることはまずない」と言われるのです。もっと厳しく言えば、神様はそのような偽善を「忌わしい」とさえ言われます(マタ23章)。

イエス様は、むしろ「隠れたところで祈りなさい」といわれます(6:6)。人前でどんなに立派な祈りをしたとしても、「密室の祈り」をおろそかにしていては何にもならないのです。それは何も「礼拝祈祷」や「感謝祈祷」など、人前で祈ることを禁じているのではありません。ただ優先順位として、私たちは「まず隠れたところでの、祈りの生活を確立しなければならない」のです。それは形の問題ではありません。人前でも、密室でも、真実な祈りを捧げなさい、という意味なのです。

また、もう一つの間違った祈りは「くどい祈り」です。以前、あるところで「『聖霊充満』と何十回も祈りなさい、そうしたら聖霊に満たされます」と言われたことがあります。聖霊に満たされることを熱心に求める気持ちは分かるのですが、一歩間違えれば、バアルの預言者の祈りになってしまいます。バアルの預言者は自分達の願いを聞いてもらうために、同じ言葉も何度も繰り返し、それでもだめなら自分達の身を傷つけて、血を流しながら、大声で叫び続けたのです(Ⅰ列王18章)。

私たちは、イエスの御名によって「アバ父」に祈るのです。もし自分の子が、呪文のように同じ言葉を、一方的に、大声で、何度も繰り返したらどうでしょうか?親としては悲しくなります。親はいつでも、自分の子の最善を願っているのです(マタイ6:8)。もし子が、自分の願いを述べるならば、そしてそれが本当に必要なものならば、ちゃんと答えるのです。「そんなに何度も言わなくてもいいよ」「そんなに叫ばなくてもいいよ」天の父もそう思っておられるのではないでしょうか?

ある人は「でも聖書には、あくまで頼み続けなさいともある(ルカ11:5-10)」と思うかもしれません。しかし、あのたとえ話は「だから神様にもしつこく頼み続けなさい」という意味ではなく、不親切な友人でも、しつこく頼めば、嫌々聞いてくれなら、「天の父は、なおさらのこと、自分の子が求めるなら、良いものを惜しみなく与えて下さる(ルカ11:11-13)」という、父の愛を教えるために語られているのです。

あなたの祈りは、いつの間にか、決まり文句を並べた「呪文」のようになっていませんか? 御父の子として、素直に、信頼にあふれ、自分の言葉で、神に語りかけていますか?


あなたがたの父なる神は、
あなたがたがお願いする先に、
あなたがたに必要なものを
知っておられるからです。
(マタイ6章7-8節)