2009年12月12日土曜日

習慣3-3「与えること、捧げること」 マラキ12:1-8

今回は「与えること、捧げること」の最終回ですが、特に「十一献金」について教えられたいと思います。ある人は、この十一献金の話をすると「教会もお金かぁ」といって躓きます。しかしある人は、聖書にそう書いてあるという理由だけで、人知れずそれを実行しています。そう考えると、これは従順における一つの試金石なのだと思います。聖書には「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです(ヨハ14:15)」 とあります。愛とか、信仰とは、何でしょうか?言葉でないことは確かです。結局、主と主のからだ(教会)とを本当に愛しているかという問題なのです。

そもそも十一献金とは、どこからきているのでしょうか?多くの人は、モーセの律法からだと思っていますが、そうではありません。その起源は、信仰の父アブラハムまで遡ります。アブラハムは祭司メルキゼデクに「すべての物の十分の一」をささげました(創14:20)。またヤコブは、石を枕にしたあの荒野で「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守る…」との契約を授けられました。その応答として、ヤコブは「すべて、あなたが私に賜る物の十分の一を、私は必ずあなたにささげます(創28:22)」と誓願を立てたのです。つまり十分の一は、神の民が始まって以来、受け継がれてきたDNAなのです。

そしてモーセがそれを正式な律法としました。申命記にはこうあります。「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。…あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために(14:22-23)」。
律法は、よく誤解されますが、ただの義務ではなく、そこには意味があるのです。律法主義の間違いとは、その意味を見失い、行いだけが強調されることです。そしてこの十分の一に込められた意味と目的とは「あなたの神、主を恐れることを学ぶため」です。ですから、これは子供の頃から教えられるべき事柄なのです。

つまり、十分の一を惜しむとは、主への恐れがないのです。同じ申命記には、こんな言葉もあります。「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに、富を築き上げる力を与えられる(からです)。8:17-18)」。そもそも「これは全部、私ものものだ」と思っているから、惜しくなるのです。しかし、その考え自体が傲慢なのです。私たちに「富を築き上げる力」を与えて下さるのは神様です。そういった感謝を形にして、十分の一をささげるのです。

しかし、やっぱり十分の一というのは、旧約時代だけの基準なのでしょうか?いいえ違います。イエス様は確かに「正義、憐れみ、誠実」といった、心の問題の方が大切だと教えられましたが「十分の一もおろそかにしてはいけません(マタ23:23)」とはっきり教えられました。つまりイエス様は、律法を無効にされたのではなくて、律法以上の事を教えられたのです。律法以上の事とは、機械的に十分の一を捧げるのではなく、心から、喜んで、豊かに捧げることなのです(Ⅱコリ9:6-8)。

アナニヤとサッピラは反面教師です(使徒5:1-10)。彼らは確かに地所を売り、多額の献金をしました。しかしそこには、主への恐れも、感謝も、誠実もなかったのです。彼らは「これで全部です」といい、神と人を欺いたのです。私たちも、もし「これで十分の一です」と言いながら、その一部を手元に残しておくなら、彼らと同じではありませんか。◆貧しいやもめに倣いましょう(マコ12:41-44)。彼女にとっては、十分の一とか、そんな数字はどうでもよいことでした。ただ心から、神様に感謝の心を表したかっただけなのです。イエス様は、彼女の信仰を称賛されました。額の多少ではなく「心」です!ただし行いの伴った心なのです。

ひとりひとり、
嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めた通りにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
Ⅱコリント9:7

習慣3-3「与えること、捧げること」 マラキ12:1-8

今回は「与えること、捧げること」の最終回ですが、特に「十一献金」について教えられたいと思います。ある人は、この十一献金の話をすると「教会もお金かぁ」といって躓きます。しかしある人は、聖書にそう書いてあるという理由だけで、人知れずそれを実行しています。そう考えると、これは従順における一つの試金石なのだと思います。聖書には「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです(ヨハ14:15)」 とあります。愛とか、信仰とは、何でしょうか?言葉でないことは確かです。結局、主と主のからだ(教会)とを本当に愛しているかという問題なのです。

そもそも十一献金とは、どこからきているのでしょうか?多くの人は、モーセの律法からだと思っていますが、そうではありません。その起源は、信仰の父アブラハムまで遡ります。アブラハムは祭司メルキゼデクに「すべての物の十分の一」をささげました(創14:20)。またヤコブは、石を枕にしたあの荒野で「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守る…」との契約を授けられました。その応答として、ヤコブは「すべて、あなたが私に賜る物の十分の一を、私は必ずあなたにささげます(創28:22)」と誓願を立てたのです。つまり十分の一は、神の民が始まって以来、受け継がれてきたDNAなのです。

そしてモーセがそれを正式な律法としました。申命記にはこうあります。「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。…あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために(14:22-23)」。
律法は、よく誤解されますが、ただの義務ではなく、そこには意味があるのです。律法主義の間違いとは、その意味を見失い、行いだけが強調されることです。そしてこの十分の一に込められた意味と目的とは「あなたの神、主を恐れることを学ぶため」です。ですから、これは子供の頃から教えられるべき事柄なのです。

つまり、十分の一を惜しむとは、主への恐れがないのです。同じ申命記には、こんな言葉もあります。「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに、富を築き上げる力を与えられる(からです)。8:17-18)」。そもそも「これは全部、私ものものだ」と思っているから、惜しくなるのです。しかし、その考え自体が傲慢なのです。私たちに「富を築き上げる力」を与えて下さるのは神様です。そういった感謝を形にして、十分の一をささげるのです。

しかし、やっぱり十分の一というのは、旧約時代だけの基準なのでしょうか?いいえ違います。イエス様は確かに「正義、憐れみ、誠実」といった、心の問題の方が大切だと教えられましたが「十分の一もおろそかにしてはいけません(マタ23:23)」とはっきり教えられました。つまりイエス様は、律法を無効にされたのではなくて、律法以上の事を教えられたのです。律法以上の事とは、機械的に十分の一を捧げるのではなく、心から、喜んで、豊かに捧げることなのです(Ⅱコリ9:6-8)。

アナニヤとサッピラは反面教師です(使徒5:1-10)。彼らは確かに地所を売り、多額の献金をしました。しかしそこには、主への恐れも、感謝も、誠実もなかったのです。彼らは「これで全部です」といい、神と人を欺いたのです。私たちも、もし「これで十分の一です」と言いながら、その一部を手元に残しておくなら、彼らと同じではありませんか。◆貧しいやもめに倣いましょう(マコ12:41-44)。彼女にとっては、十分の一とか、そんな数字はどうでもよいことでした。ただ心から、神様に感謝の心を表したかっただけなのです。イエス様は、彼女の信仰を称賛されました。額の多少ではなく「心」です!ただし行いの伴った心なのです。

ひとりひとり、
嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めた通りにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
Ⅱコリント9:7

2009年11月23日月曜日

習慣3-2「与えること、捧げること」 ヨハネ12:1-8

前回に引き続き「与えること、捧げること」について学んでいきたいと思います。前回、私たちは、神様が本来「与えられるお方」であり、私たちが喜んで与える時「神に似た者」とされることを学びました。確かに聖書には、「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(ヨハネ3:16)」と記されています。また前回の学びの最後には「どうか私たちが、惜しまずに与えられた者として、惜しまずに与え、捧げるものとなることができますように。永遠のいのちは、その人のものだからです」ともありました。しかし、分かってはいても、「与えること」は決して簡単なことではありません。なぜでしょうか?

それは私たちが「金銭」を愛しているからです。聖書は再三にわたり「金銭を愛してはいけません」と警告しています。Ⅰテモテ6章10節には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」とも記されています。それほど、金銭欲は根深い問題なのです。もちろんお金そのものが悪いのではありません。お金は、社会を形成する大切な要素です(マタイ22:21)。しかし、お金に心を奪われてはいけないのです。金銭を愛する時、私たちがお金を所有するのなく、お金が私たちを所有してしまいます。金銭を愛する者は、決して金銭に満足できません(箴5:10)。

お金の悪魔には特別な名前があります。それが「マモン(mammon)」です。マタイ6章24節には「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富(マモン)にも仕えるということはできません」と記されています。今日、「仕事」が、礼拝を休む正当な理由のように考えられているところがあります。しかし私たちは立ち止まって吟味しなければなりません。私たちは主(ヤーウェ)に仕えているのでしょうか?それとも富(マモン)に仕えているのでしょうか?いつの間にか、マモンを重んじ、主を軽んじてはいないでしょうか?

人は放っておくと、気付かないうちにマモンを頼り、マモン礼拝に陥っていくのです。イエス様は、そんな私たちに「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます(マタイ6:33)」と約束されました。またパウロも「頼りにならない富に望みを置かないように。むしろ私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように(Ⅰテモテ6:17)」と勧めています。最終的に私たちを守るのは富(マモン)ではなく、主です。このお方は、決してあなたを、見捨てることがありません(ヘブル13:5)!

私たちは、どうやって物質主義に抵抗し、マモン礼拝を止めることができるのでしょうか?「与えること、捧げること」によってです。もし、私たちが、神様や人のために、時間やお金を捧げようとするなら、マモンは必至で「もったいない!バカなことを!そんなお金(時間)があったら…!」と抵抗してくることでしょう。でも、騙されてはいけません!その声は、マモンに心を奪われた、あのユダの言葉とまったく同じ言葉ではありませんか(ヨハネ12:5)!もしあなたが、その声に勝利するなら、マモンの支配から自由にされ、主との親しい交わりに入れられるのです。

マリヤは、真実と行いを持って主を愛しました。ユダは口先ばかりで、結局人にも与えず、神様にも捧げませんでした。聖書にはこうあります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(ヤコブ2:26)」◇同様にゆだねるとは、真実と行いを持ってゆだねることです。「神様あなたにゆだねます。でもこのからだとお金はゆだねません」と言うのでは、ゆだねたことになりません。思い切って「手放し、与え、捧げる」それがゆだねることです。ゆだねる時、必ず主が、必要を満たしてくださるのです。

あなたがたの思い煩いを、
いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを
心配してくださるからです。
(Ⅰペテロ5:7)

2009年11月17日火曜日

習慣3-1「与えること、捧げること」 マタイ6:19-24 マルコ10:17-22

霊的成長をもたらす4つの習慣、今日からはその3つ目の「与えること、捧げること」について学んでいきます。「与えること」とは、人のために与えること、「捧げること」とは、神さまのために捧げることです。私は牧師になってしばらく、このテーマで語ることに躊躇がありました。なぜなら、このテーマが人々の躓きになると感じていたからです。確かにデリケートなテーマだとは思います。しかしイエス様も、お金については大胆に語っています。霊的成長のためにも、このテーマについて、少しずつ学んでいきましょう。

実はイエス様のたとえ話の半分以上は「お金」に関することです。もう一度福音書を読み返してみると、その事実に改めて驚くことでしょう。聖書は私たちに、信じることや、祈ること、そして愛することを教えています。そのキーワードを別々に調べてみると、聖書には「信じること」が272回、「祈ること」が371回、「愛すること」が714回、登場しています。それに対して、「与えること」は、なんと2162回も登場するのです(リック・ウォレン著)。なぜでしょうか?それは神様が与える方であり、私たちにもその模範にならう者となって欲しいからです。

お金の使い方に私たちの本音が出ます。人は自分が価値を認める物に対しては、出費を惜しまないのです。グルメな人は、外食や食べ物にお金を惜しまないでしょう。車が好きな人は、食費を削ってでもローンを組みます。趣味が生きがいの人は、無理をしてでもそれを継続し、教育熱心な人は、子供の習い事のために、自分の趣味を我慢します。お金だけではありません。私たちは、自分にとって大切なことのためには、時間も、労力も、惜しみなくつぎ込むのです。しかし、それほど価値がないと思うと、とたんに「もったいない」と出し惜しみをするのです。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです(マタイ6:21)」。あなたの宝は、今、どこにあるでしょうか?信仰とは「あなたを信じます」「あなたを賛美します」「あなたを愛します」と言うことだけではありません。聖書には「自分のからだをもって、神の栄光を表しなさい(Ⅰコリント6:20)」とあります。本当の愛とは、自分のからだをもって、また自分の宝をもって、痛みを伴っても、具体的に表されるものなのです。あなたのお金の使い方、あなたの時間の使い方、あなたの生活上の優先順位。それが、すなわち、あなたの「心」であり「信仰」なのです。

聖書には金持ちの青年が登場します(マタイ19:16-22)。彼は「尊い先生」と言ってイエス様に近づいて来ました。しかし彼の本心は、自分の「尊さ」を示すことにありました。彼は自分の正しさを、これでもかと主張しています。しかしイエス様は、そんな彼をいつくしんで「あなたの持ち物を売り払って…」と言われました。どんなに立派なことを言っていても、人の本心はそこに現れるからです。すると、彼は顔を曇らせ、その場を立ち去ってしまいました…。ちなみにこの話は「イエスが道に出て行かれると(17)」と始まっています。その道はエルサレムへと続く道です。イエス様は今から十字架上で、ご自身を捧げようとしておられたのです。

イエス様は十字架上で、命を捧げ、私たちへの愛を表してくださいました。そのイエス様が言われます。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです(ルカ9:24)」。◇どうか私たちが、惜しまずに与えられた者として、惜しまずに与え、惜しまずに捧げるものとなることができますように。永遠のいのちは、その人のものだからです。

子どもたちよ。私たちは、
ことばや口先だけで愛することをせず、
行いと真実をもって愛そうではありませんか。
(Ⅰヨハネ3章18節)

習慣2-6「祈り~主の祈り⑤~」マタイ6章13節

今日はいよいよ最後の主の祈りですが、その祈りは「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」です。でもなぜか、この部分にだけカッコが付けられています。脚注にも「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。ルカ福11章にも、この句はありません。イエス様はこの部分を教えられなかったのでしょうか?そんなことはありません。この句がなければ、祈りとして突然プツンと終わっていることになり、あまりにも不自然です。おそらく、こう祈るのが当時の習慣であり記すまでもなかったか、各自が自分の言葉で頌栄をおぎなって祈れるようにと、マタイらが配慮したと考えられます。(J.Jeremias,Unknown Saying of Jesus,1957)

国と力と栄とは、とこしえにあなたのもの・・・、との祈りに込められた思いは何でしょう。ハイデルベルグ信仰問答には、大変分かりやすく「・・・(主)あなたこそが私たちの王、また全ての力ある方であり、・・・私たちにではなく、あなたの聖なる御名が、永遠に賛美されるためです」とまとめられています。日本人は「君が代」を歌うとき、「君が代」すなわち「天皇の治世」が千代に八千代に続くことを願って歌います。しかしクリスチャンは、王の王であり、力強い、栄光の主のご支配(神の国)が、永遠に続くことを願って、この主の祈りを締めくくるのです。

またアーメンとはどういう意味でしょうか?アーメンは、もともとヘブライ語の「アーマン(その通りです)」からきています。それがギリシャ語のアーメンになり、指導者の語ったことに対する同意や、祈りの最後に「そのごとくなりますように」との気持ちを込めて唱えられるようになりました。ところで私たちは、自分の祈ったことに対して、心から「アーメン」と言っているでしょうか?神様は、私たちのうわべではなく、心を見られます(Ⅰサム16:7)。「御国が来ますように」「御心がなりますように」「人を赦します」など、それが私たちの本心でしょうか?主は口先ではなく、心からのアーメンをともなった祈りを求められています!

また私たちは、真実な主に信頼として、アーメンと祈ります。聖書にはこうあります。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン(エペソ3:20-21)」。私たちは自分でも、何を祈るべきなのか分からないときがあります。時には、まったく的外れなことを祈っているときもあるでしょう。また時には、人が祈っているその祈りに同意できないときもあるかもしれません。しかしそんな時でも私たちは「私たちの思いを超えて施すことの出来るお方」を信じてアーメンと告白することが出来るのです。

最後に私たちは、イエス様ご自身を求めてアーメンと言います。主の祈りは「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ」と天を見上げて始まりました。しかし祈りが進むうちに、私たちの目線は徐々に下がって来ていないでしょうか?その目をもう一度天に向けて、力強くアーメンと告白することが大切です!聖書は「しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン(黙22:21)」と結ばれています。私たちも最後にもう一度天を仰いで「御国が来ますように」「イエス様来て下さい(マラナタ)」との願いを込めて「アーメン」と主を呼ぶのです(黙3:14)。涙も、悲しみも、必ず終わることを信じて・・・(黙21:4)。

主の祈りは、天を見上げて始まり、天を見上げて終わっています。あなたの祈りはどうでしょうか?うつむいて始まり、うつむいて終わっていませんか?自分自身の内面や、周りの状況ばかり見ていても、そこからは何も生まれません。◇私達が天を見上げて心から祈る時、天の窓がひらき私たちは光に包まれるのです!

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
詩篇34篇5節

習慣2-5「祈り~主の祈り④~」 マタイ6章13節

今日の祈りは「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい」です。注意して下さい。「試みに勝てるように」ではなく「会わせないで下さい」なのです。なぜでしょう?それは私たちが罪や誘惑に対して、非常に弱い存在だからです。聖書には「愚か者は自信が強い(箴14:16)」とありますが、ペテロもかつては「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません(マルコ14:30)」と豪語しました。しかしその直後、三度もイエスを「知らない」と否んでしまったのです。自分の弱さを素直に認め、主に信頼する人こそ本当に強い人なのです。私たちの周りには、どんな「試み」があるでしょうか?

まず第一に、私たちの「肉の弱さ」があります。聖書には「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです(マタイ26:41)」とあります。私たちの内には様々な「弱さ」があります。肉的な弱さ、性的な弱さ、お金に対する弱さなど…。欲そのものは罪ではありませんが、弱さに負けて、欲に支配されてしまい、神様に従えなくなるとき、それがすなわち「罪」なのです(ヤコブ1:15)。そして罪が熟すと、死(神との交わりの断絶)を生みます(ロマ6:23)。

また「この世」からの試みもあります。誰でも激しい迫害には、もちろん会いたくありません。しかし今日のキリスト教界において、むしろ大きな問題なのは「教会の世俗化」です。気付かなういうちに、じわじわと、教会の中に「この世の基準」が入り込んで来て、クリスチャンが聖書ではなく、この世の基準にしたって生きるようになっているのです。すると教会全体は、徐々に霊的な輝きと塩気を失っていくのです(マタイ5:13-14)。デマスはこの世を愛してパウロから去っていきました(Ⅱテモ4:10)。あなたもいつの間にか、教会の交わりよりも、この世の交わりを愛していませんか?御言葉よりも、テレビや雑誌に影響されていませんか?

そして悪魔からの試みです(Ⅰペテロ5:8)。厳密にいえば、上に挙げた試みもすべて、悪魔からの試みだと言うことができます。なぜなら悪魔は私たちの弱みにつけこんで罪を犯させ、時には天使の振りをして(Ⅱコリ11:14)私たちの心を奪い、神様や教会に対する私たちの情熱を失わせるからです。気をつけて、自分の心を見張って下さい(箴4:23)!悪魔は、ほえたけるししのように、私たちを狙っています(Ⅰペテロ5:8)。ときに悪魔は、私たちの正義感さえも利用して、分裂分派をもたらしたり、間違った福音で、教会全体を滅茶苦茶にかき乱したりもします。

私たちはどうしたら、これらの試みに勝利することが出来るのでしょうか。イエス様は、荒野にて悪魔の試みを受けられたとき「御言葉」によって勝利をとられました(マタイ4章)。誘惑にあってから急いで聖書を読むのではなく、普段から御言葉に親しみ、心に御言葉を蓄えておくことが大切なのです。またその他に、悪魔に対抗する武具として「真理の帯」「正義の胸当」「福音の靴」「信仰の大盾」「救いのかぶと」「御言葉の剣」などがあります。そしてその最後には、どんな時でも御霊によって祈りなさいとあります(エペソ6章)。祈りこそ最大の防御であり武器です。

でもやはり重要なのは、自分の弱さを謙遜に認め、誘惑を避けることです。あの若いヨセフのように、誘惑からは急いで立ち去ることはもちろん(創39:12)、誘惑を感じるようなところには近づかないことが賢明でしょう。そして普段から「試みに会わせないで、悪からお救いください」と心から祈ることです。◇しかしそれでも人間は弱いのです。隠し事をすることで罪を増幅します。何でも話せるクリスチャンの友人をつくり、互いに励まし合って、祈り合うことが大切です。

兄弟たち。あなたがたの中では、
だれも悪い不信仰の心になって
生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
「きょう。」と言われている間に、
日々互いに励まし合って、だれも罪に
惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
(ヘブル3章12-13節)

2009年10月2日金曜日

習慣2-4「祈り~主の祈り③~」マタイ6章12節

今日の祈りは「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」です。普通「負いめ」というと、人が人に対して負っている負債の事を意味します。しかし聖書ではその意味を広げて、人が神様に対して負っている負債、すなわち「罪」のことも意味しています。本来私たちは到底返済できない程の負債を、神様に対して負っているのです。でも「神はその債務証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました(コロサイ2:14)」。それを「イエス様の十字架による贖い(あがない)」といいます。

多くの人々は、なかなかそれを自分のこととしてとらえることが出来ません。確かに、自分の事を完璧だなどと考えている人は、多くはないでしょう。私たちは、自分が欠けだらけで、悪いことを考え、人にも悪事を働いてしまうことがあることを良く知っています。でもだからといって自分が「赦されなければいけない」とはなかなか思えないのです。心のどこかでは「それほど悪くない」「悪いかもしれないけど、周りの人々と比べればまだましだ」などと言い訳をしているのです。

そんな私たちのために、この祈りは非常に重要なのです。この学びのためにたくさんの注解書を調べましたが釈然としません。色々な説明があります。「神様は恵み深いお方なのだから、私達が他者の負いめを赦さなければ、私たちの負いめを赦してくださらないということはない」「神様の赦しに条件を加えてはいけない」などなど。確かにそれらは正しい「解釈」であり「神学」です。でも、最初からそのような読み方をしては、この祈りの真意を悟ることは決してできないのです。

まずは真正面から、この祈りと格闘して欲しいのです。本気で人を赦して欲しい。たとえ自分が被害者であっても、相手を心から赦して欲しい。自分に負い目のある人だけではなくて、自分が兄弟に恨まれているときにも(マタ5:23-24)自分から和解の手を差し伸べて欲しい。「愛と赦しと平和」こそ、神の国の「いのち」なのです(コロ3:12-14)。それなくしては、どんな礼拝も祈りもむなしく、かえって有害です(ミカ6:6-8)。神様は私たちの行為よりも、心を求めておられます。

この祈りを本気で祈る時、必ずある問にぶつかります。それは「自分が何者なのか」という問です。赦そうとする時、私たちは問われます。自分がいかに愛のない者であり、赦せない者であるかということを。誤魔化しはききません。いざそのような状況になれば「聖書の奇麗事」なんて吹っ飛んでしまい、自分は被害者なのだから「怒り、訴え、謝罪を求める権利」があると唇を震わせるでしょう。それが本当のあなたの姿なのです!イエス様はそんなあなたに言われます「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません(マタ6:15)」。

そうして私たちは、ようやくスタートラインにつきます。それは「自分は赦される価値のない者であるとの自覚」です。イエス様はこんな愛のひとかけらもない私たちのために、ご自分を無にして(ピリ2:7)十字架にかかり「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)」と祈って下さいました。私たちは「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ(ロマ3:24)」たのです。ここに愛があります。

本当の赦しを経験した者は、赦す者へと変えられてゆきます。もし自発的に赦すなら、主は私たちの勇気を喜んでくださるでしょう。しかし強いられたとしても、私たちには「和解の務め」がゆだねられているのです。私達が、自分に負い目のある仲間を赦せなかった、愚かなしもべのようになってしまうことがありませんように(マタ18:21-35)。あなたは人を赦し祝福するために救われたのです!

互いに忍び合い、
だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、
互いに赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、
あなたがたもそうしなさい。
(コロサイ3章13節)

2009年9月17日木曜日

習慣2-3「祈り~主の祈り②~」マタイ6章11節

前回に引き続き、主の祈りを共に学びたいと思います。今日の祈りは「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」です。前回私たちが学んだ祈りは「御名をあがめさせたまえ」「御国を来たらせたまえ」「みこころを…地にもなさせたまえ」と、じつに神様中心の祈りでした。しかし今日の祈りは「日々の糧について」の祈りです。なぜ、このような祈りが大切なのでしょうか?

神様は、私たちが何でも具体的に祈ることを喜ばれます。聖書にも「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい(ピリピ4:6)」と勧められていますし、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです(ヤコブ4:2-3)」と記されています。最初から、何が御心なのかは分からないのですから、まずは何でも感謝と願いを持って、祈ってみることが大切なのです。

でも「感謝をもって捧げる祈り」とは、どういう祈りでしょうか?それは言い換えれば「すべての良い贈り物は天の父からくる(ヤコブ1:17)」との深い信頼を抱いて祈る事です。天の父なる神様は、空の鳥さえも養ってくださるお方です(マタイ6:26)。なおさら天の父は、愛する子である私達を、良いもので満ちたらせ、生活の必要にも応えてくださるのです。私たちは生活の細部にわたるまでも、このお方に信頼するという信仰告白も含め「日ごとの糧を与えたまえ」と祈るのです。

私たちの信仰は、いつの間にか霊肉二元論に陥っていないでしょうか?主の御心を求めない「自己中心な祈り」も問題ですが、日々の生活のことや、自分の願いをいっさい求めない「現実味離れした祈り」も同様に問題です。それはグノーシスと呼ばれる古くからの異端です。主は私たちに、御心を第一に求めつつも、「日ごとの糧のこと」から「こんなこと祈っていいのということ」まで「何でも」「具体的」に祈ることを願っておられるのです。それが健全な信仰でもあります。

また、この祈りは、私たちの勤勉と表裏一体です。確かに「空の鳥」は、種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしないかもしれません。しかし私たちは「もっと優れた者」として、労働する「責任」を与えられています。「日ごとの糧を与えて下さい」と祈っても、実際に手足を動かさなければ、食べることはできないでしょう。不安や、欲望から、ガツガツ働くのではありません。私たちは、いざとなったら天からマナを降らせるお方に信頼して「感謝しながら」「喜んで」働くことができるのです。それがクリスチャンの「勤勉」であり「祈り」です。

同時に、私たちは「日ごとの糧を」と祈るたびに、イエス・キリストのことを覚えます。ギリシャ語で「日ごとの糧」は「毎日のパン」です。そしてイエス様は、ご自分の事を「わたしがいのちのパンです(ヨハネ6:35)」と紹介されています。人は、決してパンだけで生きるのではありません、いのちのパンである、イエス・キリストと、そのことばを必要としているのです(マタイ4:4)。天の父は「いのちのパン」であるイエス様を、私たちに与えてくださいました。またそれだけでなく、それと一緒に、すべてのものを、恵んでくださるお方なのです(ローマ8:32)。

あなたは毎日の生活の中で、どんなことでも主に祈っていますか?いつの間にか「こんなこと祈っても」「これは神様に関係ない」などと決め付けてしまっていることはないですか?もう一度心を開いて、全領域において主に信頼しましょう。
またあなたは、いのちのパンを毎日食べていますか?私たちの体は、私たちが食べたもので出来ています。同様に、私たちの魂は、私たちが食べているもので出来ているのです!もしいのちのパンを食べるなら、あなたはいのちに溢れます!

私たちの日ごとの糧(パン)を
きょうもお与えください。
マタイ6章11節

イエスは言われた。
「わたしがいのちのパンです。」
ヨハネ6章35節

2009年9月14日月曜日

習慣2-2「祈り~主の祈り①~」マタイ6章9-10節

私たちは「霊的成長をもたらす4つの習慣」を学んでいますが、前回から(大分間が空きましたが)第2の習慣の「祈り」について学んでいます。前回は、特に「間違った祈り」について学びました。「偽善者の祈り」と「異邦人の祈り」が間違った祈りでした。それに対し今日は「正しい祈り」を学びます。

弟子たちは、イエス様に「祈りを教えて下さい」とお願いしました(ルカ11:1)。なぜでしょうか?バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えていたので、自分たちも教えて欲しいとの思いがあったのでしょう。しかしそれ以上に、イエス様と共に歩む中で、その不思議なわざや、権威ある言葉の背後には、イエス様の「祈りの生活(習慣)」があることに、弟子たちは気が付いたからです。だから「私たちにも祈りを教えて下さい」「あなたのようになりたいです」と願い出たのです。

そんな彼らにイエス様は「主の祈り」を教えられました(マタイ6:9)。イエス様は「だから、こう祈りなさい」と語られました。しかもこれは「命令形」です。だから私たちが主日礼拝のたびに「主の祈り」を祈ることは実に聖書的なのです。しかしこの「主の祈り」を丸暗記し、一字一句間違えずに繰り返すよりも、もっと大切なことがあります。それは「意味を理解し心から祈ること」です。「こう祈りなさい」とは「(これを模範として)このように祈りなさい」との意味だからです。

その祈りは「天にいます私たちの父よ」と始まります。ギリシャ語では「父よ」と始まりますが、日本語では「天にいます」と始まっています。これは素晴らしい訳だと思います。なぜなら、まず始めに、私たちの目が「天」に向けられるからです。日常の生活を送る中で、私たちの目はどうしても、この地上に「張り付いて」しまいます。しかしいったんその目を地上から「剥がし」天の御国を見上げるのです。その時状況は八方ふさがりでも、天上は開けていることに気が付くでしょう。

その天におられる全知全能の主が「私たちの父」となられたのです。その時私たちは次の詩篇を思い出します。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは(8:4)」。またその背後にイエス様の十字架の御わざがあることを覚えます。十字架の故に、私たちは罪を赦され神の子とされたのです(ロマ8章)。そのことを思い巡らすとき、自然に「御名があがめられますように」との賛美が溢れます。

続いて、見上げた天の「御国が来ますように」と祈ります(6:10)。これは天に昇っていかれたキリストが再臨し、新しい天と地が来ますようにとの願いが込められています(黙21章)。しかしそれだけではありません。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」とも言われました。「御国」とは、神様の御支配(統治)という意味もあるのです。神様が治められるところ、真の平和が実現します(エペ2:14)。この祈りは、次の祈りと密接に繋がっているのです。

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」。天においては、何の矛盾もありませんが、この地上は矛盾だらけです。悪者が栄え、正しい者が虐げられ、病気、飢餓、貧困の問題なども。その地上に、神様の「みこころ(愛と義)」が実現しますように、と祈るのです。しかも祈りっぱなしではありません。ハイデルベルグ信仰問答には「一人一人が、自分の勤めと召命を、天の御使いのように、喜んで忠実に果せるようにして下さい」という祈り、と説明されています。

どうでしょうか?あなたの祈りは、この地上の事柄を中心とした祈りでしょうか?それとも天を見上げ、神の御心をまず第一に求める祈りでしょうか?また祈るだけでなく、自分がその御心に従うという「決意」と「覚悟」を伴った祈りでしょうか?イエス様の祈りには、それが備わっていました。

「わが父よ。できますならば、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、
あなたのみこころのように、なさってください。」
(マタイ26:39)

2009年8月13日木曜日

習慣2-1 「祈り ~間違った祈り~」

私たちは今まで「霊的成長をもたらす4つの習慣」の、第1の習慣である「みことば」について学んできました。本当はもっと語りたいこともあるのですが、この辺で第2の習慣に移りましょう。第2の習慣は「祈り」です。今日はその第1回目として、特に「間違った祈り」について学びたいと思います。

まず挙げられる、間違った祈りは「偽善者の祈り」です。聖書にはこうあります。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです(マタイ6:5)」。これは言いかえると「自己顕示のための祈り」であるともいえます。「会堂や通りの四つ角」は最も人の目に触れる場所です。そのような場所で、手のひらを上にあげ、頭を下げて祈ることによって、彼らは人からの称賛を求めていたのです。

そういう人々は「敬虔を利得の手段」としているのです(Ⅰテモテ6:5)。自分が熱心で、敬虔であることを、周囲の人々にアッピールすることによって、人々からの尊敬を求めているのです。もしかしたら、そういう人は、その「演技」によって、望みの物を得ることができるかもしれません。しかしイエス様は「そういう人々が、生ける真の神様から称賛を受けることはまずない」と言われるのです。もっと厳しく言えば、神様はそのような偽善を「忌わしい」とさえ言われます(マタ23章)。

イエス様は、むしろ「隠れたところで祈りなさい」といわれます(6:6)。人前でどんなに立派な祈りをしたとしても、「密室の祈り」をおろそかにしていては何にもならないのです。それは何も「礼拝祈祷」や「感謝祈祷」など、人前で祈ることを禁じているのではありません。ただ優先順位として、私たちは「まず隠れたところでの、祈りの生活を確立しなければならない」のです。それは形の問題ではありません。人前でも、密室でも、真実な祈りを捧げなさい、という意味なのです。

また、もう一つの間違った祈りは「くどい祈り」です。以前、あるところで「『聖霊充満』と何十回も祈りなさい、そうしたら聖霊に満たされます」と言われたことがあります。聖霊に満たされることを熱心に求める気持ちは分かるのですが、一歩間違えれば、バアルの預言者の祈りになってしまいます。バアルの預言者は自分達の願いを聞いてもらうために、同じ言葉も何度も繰り返し、それでもだめなら自分達の身を傷つけて、血を流しながら、大声で叫び続けたのです(Ⅰ列王18章)。

私たちは、イエスの御名によって「アバ父」に祈るのです。もし自分の子が、呪文のように同じ言葉を、一方的に、大声で、何度も繰り返したらどうでしょうか?親としては悲しくなります。親はいつでも、自分の子の最善を願っているのです(マタイ6:8)。もし子が、自分の願いを述べるならば、そしてそれが本当に必要なものならば、ちゃんと答えるのです。「そんなに何度も言わなくてもいいよ」「そんなに叫ばなくてもいいよ」天の父もそう思っておられるのではないでしょうか?

ある人は「でも聖書には、あくまで頼み続けなさいともある(ルカ11:5-10)」と思うかもしれません。しかし、あのたとえ話は「だから神様にもしつこく頼み続けなさい」という意味ではなく、不親切な友人でも、しつこく頼めば、嫌々聞いてくれなら、「天の父は、なおさらのこと、自分の子が求めるなら、良いものを惜しみなく与えて下さる(ルカ11:11-13)」という、父の愛を教えるために語られているのです。

あなたの祈りは、いつの間にか、決まり文句を並べた「呪文」のようになっていませんか? 御父の子として、素直に、信頼にあふれ、自分の言葉で、神に語りかけていますか?


あなたがたの父なる神は、
あなたがたがお願いする先に、
あなたがたに必要なものを
知っておられるからです。
(マタイ6章7-8節)

2009年7月26日日曜日

習慣1-3「みことば~心が燃やされる、聖書の読み方~」

私たちは今まで「礼拝説教の聞き方」と「デボーションの恵み」について学んできましたが、それらはいずれも「みことば」についてでありました。聖書には「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル4:12)」とありますが、みことばは、その切れ味の鋭さのゆえ、読み方によっては危険な道具にもなるのです。

エマオへの途上で、ふたりの弟子は暗い顔で論じあっていました。イエス様が彼らの傍らを歩いておられるにもかからず、彼らは「ナザレのイエスが十字架に架けられたこと(ルカ24:19~)」を嘆いていたのです。彼らの目はさえぎられていました(24:16)。彼らの目は何によって、さえぎられていたのでしょうか?悲しみでしょうか?不信仰でしょうか?恐れでしょうか?いずれにしても、彼らの目はさえぎられ、イエス様がすぐ近くにおられたのに、気づくこともできなかったのです。

私たちの心の目は開いているでしょうか。心の目が閉じたまま、聖書を読んだり、聞いたりしても、全然心に響いてこないでしょう。そのような時、私たちは「このデボーションテキストに、もしくは、この教会の礼拝や説教者に問題があるのでは」と考えてしまうかもしれません。しかしそうではありません。たとえそうであっても「神のことばは生きていて、力がある」のです。みことばが心に響いて来ないなら、むしろ「私たちの内にある何かが」邪魔をしているのです。

私たちの心の目をふさぐものは何でしょうか。時には「単なる体調不良」ということもあるでしょう。もしそうなら十分な休息をとることをお勧めします。しかし、より深刻なのは「霊的な体調不良」です。それは「許さない心」や「隠された罪」、「結局自分の考えを優先する不従順」や「自分の考えが正しいという傲慢」によってもたらされます。そのようなことを続けていると、徐々に、みことばを読んでも、聞いても、何も感じず、感動もしなくなってくるのです。もしそうなってしまったら、すぐにでも悔い改め、まず主との関係を回復しなければなりません。

私たちは、開かれた心で、「正しく」聖書を読まなければ」なりません。それは「聖書を体系的に、文脈にそって読むこと」です。正反対は、まるでおみくじのように、聖書の一節だけを抜き出して、自分の状況にインスタントに適応するという読み方です。そのような読み方は、私たちの生活に平安どころか、不安定をもたらし、家族をはじめ、周りの者まで振り回してしまうでしょう。イエス様はエマオの途上で、聖書全体から、丁寧に、時間をかけて説き明かされたではありませんか。そういった基本を大事にしながら、聖霊の導きに従って読むことが大切なのです。

こんな話があります。ある人が「主よもう駄目です。私の人生に対するあなたの御心を教えて下さい」と祈り、目をつむって聖書をガバッと開きました。するとそこには『ユダは出て行って首をつった(マタ27:5)』とありました。これはおかしいと思った彼は、もう一度、天を仰ぎ、勢いよく聖書を開きました。するとそこには『あなたも行って同じようにしなさい(ルカ10:37)』とあるではありませんか。彼は「主よこれが最後です」と、もう一度聖書を開きました。するとそこには『あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい(ヨハ13:27)』とありました…。

あなたの心の目は開いていますか?また、あなたの聖書の読み方は、正しい読み方でしょうか?主の前にへりくだり、心をつくし、思いをつくし、知力を尽くして、聖書を読みなさい。そうすれば、あなたの心は熱く燃やされるのです!

そこでふたりは話し合った。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24章32節)

2009年7月16日木曜日

習慣1-2 「みことば ~デボーションの恵み~」

前回私たちは、霊的な成長のためには、「みことば」によるところの「義の訓練」が大切であると学びました。だから、礼拝説教をしっかり聞きなさい、聞いて反芻し、実行する者になりなさい、と学んだのです。みことばに関しては、それで十分なのではないでしょうか?しかし、そうではないのです。

誤解を恐れずに言うならば、礼拝説教だけに依存する信仰は危険です。それは信仰生活の「牧師依存」につながるからです。いつまでたっても、牧師に料理してもらわなければ、みことばを食べることも、消化することもできないというのが牧師依存です。リビングライフ編集者のハ・ヨンジョ牧師はこう警告します。「そのような信仰生活を続けていると、自分ひとりで神を探し求めたり、祈ったり、みことばを読んだりできなくなってきます。しかも、この牧師に祈ってもらっても効果(?)がなく、あの牧師に祈ってもらわなければいけないと考えるようになるのです」。それは一見熱心そうに見えても、牧師を神とする、偶像崇拝です。

何が足りないのでしょうか?それは、個人的な神との交わり、デボーションです。デボーションとは、QT(静思の時)とも言いますが、リック・ウォレン師はそれを「神を知るために、聖書と祈りを通して、神と個人的に交わることである」と定義します。その他にも「デボーションとは霊的な日々の糧を得ることである」とか、「聖書の中の宝探しの時間である」とか様々な言い方ができるでしょう。それは一朝一夕に結果の出るものではありませんが、その継続が人生に大きな違いを生み出します。「時が来れば刈り取ることになります(ガラ6:9)」とある通りです。

デボーションにはどんな祝福が伴うのでしょうか?一番良い表現が「主イエスに似た者とされること」だと思います。聖書にはこうあります。「しかし人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。私たちはみな顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです(Ⅱコリ3:16,18)」。私たちは、一緒に時間を過ごした人と、似てくる傾向があります。ならば、イエス様と交われば交わるほど、私たちはイエス様に似てくるのです!

しかしデボーション至上主義は危険です。ハ・ヨンジョ牧師はこう警告します。「何事でも極端に傾くことはよくありません。QT歴の長い人がQTに疲れているのを見ることがあります。QTが機械的になってはいけません。QTをしながら疲れたのなら、少しお休みすることをお勧めします。再び力を得、生き生きとした関係を回復することの方が重要です」と。またリック・ウォレン師も「もし悪魔が『おいお前デボーションをさぼったな!』と非難するようなことがあっても、真に受けてしまわないように気をつけましょう」と言います。サタンは元来「訴える者」です(黙12:10)。彼らはそうやって、主との交わりの「喜び」を奪い去るのです。

動機はいつも「愛」です。好きな人とは一分一秒でも長くいたいものです。デボーションも同じです。祝福があるからデボーションをするのでもなく。しないと祝福がなくなるからするのでもありません!イエス様は私たちの心に入って、共に食事(親しい交わり)をしたいと願われているのです(黙3:20)。私たちもイエス様を一番愛しているから、一日の初めの時間を「捧げる(devote)」のです。それが本当の「デボーション(devotion)」です。この習慣こそ毎日の「献身」です。

でも改めてなぜ朝なのでしょう?ハドソン・テーラーはこう答えました。「楽器のチューニングは当然コンサート前に行うものです。(前日では早すぎるし)終わってからでは遅いのです」と。私たちの心のチューニングも、いつの間にかずれていないでしょうか?一日の初めに主の御声を聞き、本番に臨みたいものです。

さて、イエスは、
朝早くまだ暗いうちに起きて、
寂しい所へ出て行き、
そこで祈っておられた。
(マルコ1章35節)

2009年7月9日木曜日

習慣1-1 「みことば ~礼拝説教の聞き方~」

今回から新しい学びのシリーズに入ります。参考にするのはリック・ウォレン著の「霊的成長をもたらす4つの習慣」です。その第1の習慣は「みことば」です。岐阜キリスト教会でも2009年度スローガンを「生活の中心に主の祭壇(祈り・みことば・献身)を!」と掲げていますが、それと大いに通ずるところがあります。私たちはどうしたら霊的に成長できるのでしょうか?

本書の題名が「霊的成長をもたらす4つの習慣」となっていることは興味深いことです。なぜなら「習慣」は一朝一夕によっては築かれないからです。「決断」が「行動」を生み出し、「行動」の積み重ねが「習慣」を生み出します。つまり霊的成長のための魔法の方法はなく「長い時間」と「忍耐」が必要なのです(ヤコ1:4)。逆もまた真で、どんなに長くクリスチャンをしていても、「忍耐」と「信仰による決断」がないなら、いつまでたっても「信仰的には幼子」のままなのです(ヘブ5:12)。

霊的な成長を阻害するものは何でしょうか?いろいろ上げられると思いますが、中でも大きな原因は「気ままな態度」です(Ⅱテモ4:3)。聞きたくないことは聞かず、やりたくないことは一切やらない。自分の好きなことだけをし、自分の好きなみことばだけを聞こうとする、そのような態度のことです。彼らの教会生活は「非常に受け身」で「気分任せ」です。そこには「信仰による決断」も「忍耐」もありません。ただ自分の「気分」だけがあり、それが心の王座を占めているのです。

では反対に霊的成長をもたらすものは何でしょうか?一番先にあげられるのが「みことば」です。聖書には「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは神の人が、すべての良い働きのために相応しい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ3:16-17)とあります。賛美や交わり、祈りなど、他にも大切なことはたくさんありますが、このみことばから離れてしまう時、私たちの信仰は「気まま」で「自己流」になってしまうのです。

しかもその「聞き方」が大切です。今回は礼拝説教について特に言及しますが、ある統計によると、耳から入った情報は、何と72時間以内にその95パーセントが失われてしまうそうです。あなたは、数日前の礼拝メッセージを、どれくらい思い出せるでしょうか?聖書には「自分を欺いて、ただ聴くだけのものであってはいけません(ヤコ1:22)」「だから、聞き方に注意しなさい(ルカ8:18)」とあります。

良い聞き方とは、何度も「思いめぐらす」ことです。詩篇1篇2節には「その人は…教えを口ずさむ」とありますが、脚注には「思い巡らす」とあります。つまり、牛が何度も草を反芻して、その栄養を十分に消化吸収するように、私たちもみことばを何度も反芻し、その栄養を吸収することが大切なのです。試しに、日曜日の午後から月曜日の朝までに少なくとも3度、礼拝説教を思い出してみてください。そしたらもう忘れません。そして1週間かけて、みことばを「実行」するのです!

サタンの策略は、私たちを礼拝説教以外のものに熱中させることです。今までの歴史においても、教会がみことばより、政治活動や社会運動に一生懸命になった時、信仰の灯火が消えそうになりました。◆私たちがもし礼拝説教よりも、教会行事や交わり、クワイアやその他の奉仕を愛するなら、私たちの信仰の炎も消えてゆきます。◆一週間の罪をすべて主に告白し、心を空っぽにして礼拝に出席しなさい。そして神様に期待し、大きな口をあけなさい(詩81:10)。すると神様は、あなたに大切なみことばを授けてくださいます。後はそれをよく反芻しなさい。

あなたの口を大きくあけよ。
わたしが、それを満たそう。
その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを反芻する。
その人は、何をしても栄える。
(詩篇81:10、1篇2-3節意訳)