2010年2月18日木曜日

習慣4-5「共に生きること」Ⅰコリ3章 詩篇1篇 ロマ12章

現在、私たちは「交わり」について学んでいます。でも、もうお気づきの方もいるかもしれませんが、それは「そもそも教会とは、どのような共同体なのか」ということに直結しているのです。私たちは、この世の中で生活しています。また、救われる前にはその中にどっぷりつかっていました。ですから自分でも気付かないうちに、この世の基準で教会を見てしまっていることがあるのです。もしかしたら長年教会に通っている人も、教会に対する間違ったイメージを持ったまま歩んでいるかもしれません。そういった小さなボタンの掛け違いが、ある時、些細な出来事をきっかけに噴出し、教会を揺るがす大問題になってしまうこともあるのです。

度々紹介する、コリント教会の問題がそうでした。彼らはめいめい勝手に「私はパウロにつく」「私はアポロに」と叫んでいました。しかも彼らはみな正義感にあふれて、絶対に自分は正しいと信じて、そう叫んでいたのです。だから教会の問題は根が深いのです。そんな彼らにパウロはこう書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Ⅰコリ3:5-7)。この言葉より私たちは「そもそも教会がどのような共同体であるか」を知ることができます。

教会とは「そもそもチームワーク重視の共同体」なのです。パウロは「主がお与えになった分に応じて」と言いましたが、私たちにはそれぞれ、異なった賜物が与えられているのです。優劣ではありません。なのに、お互いに比べて、ねたみ合ったり、非難し合ったり、誇り合ったりするのは、何と愚かなことではないでしょうか。「ただ分に応じて」キリストとキリストのからだに仕えることが大切なのです。聖書には「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と勧められています(ローマ12:5-10)。

また教会とは「そもそもバトンタッチの共同体」です。教会はそのようにして2000年間受け継がれてきました。牧師でも信徒でも「自分がいなくなれば、この教会はダメになる」と立場や奉仕を握りしめてはいけません。それは不健全な姿です。もちろん、無責任に奉仕を投げ出せばよいといっているのではありません。私たちは任された期間、精一杯、熱意をもって主に仕えるのです。しかし、それを握りしめず、常に後任を探し求め、育成し「責任を持って譲っていく」という努力も大切なのです。ましてや人が、自分の奉仕を奪うなどと、危機感を持つべきではありません。喜びなさい!それは、もともとあなたのものではないのですから。

教会とは「そもそも主を中心とした交わり」です。もちろん働き人は大切です。御言葉を教える人、奉仕する人、役員をする人が教会には必要です。しかしもっと大切なのは「成長させて下さる神」なのです(Ⅰコリ3:7)。この神様を中心とした教会を形成するのでなければ、その教会は「木、草、わら」で立てられた教会ではないでしょうか(12)?私たちが、教会において何かを成し遂げたとしても、すべての栄光は、主にのみささげるのです。その姿勢が聖い教会をたてあげます!

あなたはいつの間にか、働き人に依存していませんか?その人がいなくなれば、自分の信仰がダメになると思っていませんか?またあなたはいつの間にか、奉仕に依存していませんか?その奉仕がなくなると、自分の信仰がダメになると思っていませんか?もしもそうならば、余分なものを主に明け渡し、水路に植わった一本の木になりなさい。ただ主ご自身を喜んでいた、初めの愛に戻りなさい。そうすることによって、あなたは本当の意味で主の栄光を輝かせる、恵みに溢れた、聖いしもべとなることができるのです。

まことに、その人は
主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。

詩篇1篇2~3節

2010年2月4日木曜日

習慣4-4「共に生きること」 ローマ14章 ガラテヤ6章

私たちは今、クリスチャンの交わりについて学んでいますが、それがどのようなものなのか、ヨハネの手紙第一1章7節に良く記されています。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。クリスチャンの交わりは「聖い交わり」です。もし私たち一人一人が「光の中を歩んでいるなら」そして「そういった者同士が交わりを共にするなら」御子イエスの血が、ますますその交わりを、内側から聖めて下さるのです。

クリスチャンの交わりの原則は「さばき合わないこと」です。もしも私たちの交わりが、聖霊によって完全に支配されているならば、そこには「霊的な自浄作用」が働いているのです。ですからあなたがあえて罪を指摘しなくても、主ご自身がその人に罪を悟らせ、悔い改めに導いてくださるのです。私たちにできるのは、人をさばくことではなく、むしろ最初から人が躓かないように「躓きになるものを置かないこと」です(ロマ14:13)。つまり、聖書から出ていない、自分達の伝統やしきたり、暗黙の了解や勢力図など、余計な事に友を巻き込むなということです。

また「あなたのためだから」という善意の押しつけは控えましょう。私たちの熱心は、時に「自分が正しいと思うこと」を人にもおしつける「お節介」や「過干渉」となって現れます。しかし気をつけて下さい。それもあなたの「支配欲」です。それによってあなたは、本当にその人を育てたいのではなく、いつまでも自分の助けを必要とする「無力な子供」としておきたいのです。しかし主は言われます。「このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです(ロマ14:4)」。すべての聖徒は主のものです。過干渉、お節介は慎みましょう。

しかし現実問題として、交わりには色々な事が起こります。時には、自浄作用が働かず、兄弟姉妹が罪にとらわれていることもあるでしょう。また、一人では立ち上がることができず、助けを求めている兄弟姉妹がいるかもしれません。それでも、主が直接に語りかけられる事を待つべきでしょうか?それでもお節介を控えるべきなのでしょうか?いいえそんな事はありません。主は、私たちが「助け合い」「赦し合い」「愛し合う」ことを望んでおられるのです。ただし「正しい心で」です!どんなに良い事でも「正しい心」から出ていなければ、それは有害です。

正しい心とは、第一に「柔和な心」です。本当の意味で人を変えるのは「愛」です。厳しく非難し、叱ることにも、一定の効果はあるかもしれませんが、根本的な解決にならず、交わりに「しこり」を残してしまいます。そもそも、私たちは「同じ主のしもべ」ではありませんか。私たちに、兄弟姉妹を叱る権利はありません。あくまで兄弟姉妹の一人として「愛を持って、柔和に諭す」に留めるべきです。もし、それができなければ、むしろ黙っているべきです。また自分の手に負えない時には、隠さず、教会(牧師と役員会)に告げる事も大切です(マタイ18:17)。

また第二に、正しい心とは「謙遜な心」です。まるで自分が神様のようになって、人をさばいていてはいけません。聖書には「誰でも立派でもない自分を、何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです(ガラ6:3)」とあります。立場が変われば、自分も同じような誘惑に陥ってしまうかもしれないのです。そういう同じ目線に立って、互いの重荷を負い合っていくことが大切なのです。

交わりとは「互いの重荷を負い合うこと」です。交わりの中で、あなたは人を助け、人に助けられます。また人を許すだけではなく、人に許されます。そうして、先の者が後になり、後の者が先になるのです。◆シスター渡辺和子は「愛することは、許されること」と表現しました。そういう生きた交わりの中で、キリストの愛の律法は全うさるのです。

互いの重荷を負い合い、
そのようにして
キリストの律法を全うしなさい。
(ガラテヤ6章2節)