2009年11月23日月曜日

習慣3-2「与えること、捧げること」 ヨハネ12:1-8

前回に引き続き「与えること、捧げること」について学んでいきたいと思います。前回、私たちは、神様が本来「与えられるお方」であり、私たちが喜んで与える時「神に似た者」とされることを学びました。確かに聖書には、「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された(ヨハネ3:16)」と記されています。また前回の学びの最後には「どうか私たちが、惜しまずに与えられた者として、惜しまずに与え、捧げるものとなることができますように。永遠のいのちは、その人のものだからです」ともありました。しかし、分かってはいても、「与えること」は決して簡単なことではありません。なぜでしょうか?

それは私たちが「金銭」を愛しているからです。聖書は再三にわたり「金銭を愛してはいけません」と警告しています。Ⅰテモテ6章10節には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」とも記されています。それほど、金銭欲は根深い問題なのです。もちろんお金そのものが悪いのではありません。お金は、社会を形成する大切な要素です(マタイ22:21)。しかし、お金に心を奪われてはいけないのです。金銭を愛する時、私たちがお金を所有するのなく、お金が私たちを所有してしまいます。金銭を愛する者は、決して金銭に満足できません(箴5:10)。

お金の悪魔には特別な名前があります。それが「マモン(mammon)」です。マタイ6章24節には「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富(マモン)にも仕えるということはできません」と記されています。今日、「仕事」が、礼拝を休む正当な理由のように考えられているところがあります。しかし私たちは立ち止まって吟味しなければなりません。私たちは主(ヤーウェ)に仕えているのでしょうか?それとも富(マモン)に仕えているのでしょうか?いつの間にか、マモンを重んじ、主を軽んじてはいないでしょうか?

人は放っておくと、気付かないうちにマモンを頼り、マモン礼拝に陥っていくのです。イエス様は、そんな私たちに「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます(マタイ6:33)」と約束されました。またパウロも「頼りにならない富に望みを置かないように。むしろ私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように(Ⅰテモテ6:17)」と勧めています。最終的に私たちを守るのは富(マモン)ではなく、主です。このお方は、決してあなたを、見捨てることがありません(ヘブル13:5)!

私たちは、どうやって物質主義に抵抗し、マモン礼拝を止めることができるのでしょうか?「与えること、捧げること」によってです。もし、私たちが、神様や人のために、時間やお金を捧げようとするなら、マモンは必至で「もったいない!バカなことを!そんなお金(時間)があったら…!」と抵抗してくることでしょう。でも、騙されてはいけません!その声は、マモンに心を奪われた、あのユダの言葉とまったく同じ言葉ではありませんか(ヨハネ12:5)!もしあなたが、その声に勝利するなら、マモンの支配から自由にされ、主との親しい交わりに入れられるのです。

マリヤは、真実と行いを持って主を愛しました。ユダは口先ばかりで、結局人にも与えず、神様にも捧げませんでした。聖書にはこうあります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(ヤコブ2:26)」◇同様にゆだねるとは、真実と行いを持ってゆだねることです。「神様あなたにゆだねます。でもこのからだとお金はゆだねません」と言うのでは、ゆだねたことになりません。思い切って「手放し、与え、捧げる」それがゆだねることです。ゆだねる時、必ず主が、必要を満たしてくださるのです。

あなたがたの思い煩いを、
いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを
心配してくださるからです。
(Ⅰペテロ5:7)

2009年11月17日火曜日

習慣3-1「与えること、捧げること」 マタイ6:19-24 マルコ10:17-22

霊的成長をもたらす4つの習慣、今日からはその3つ目の「与えること、捧げること」について学んでいきます。「与えること」とは、人のために与えること、「捧げること」とは、神さまのために捧げることです。私は牧師になってしばらく、このテーマで語ることに躊躇がありました。なぜなら、このテーマが人々の躓きになると感じていたからです。確かにデリケートなテーマだとは思います。しかしイエス様も、お金については大胆に語っています。霊的成長のためにも、このテーマについて、少しずつ学んでいきましょう。

実はイエス様のたとえ話の半分以上は「お金」に関することです。もう一度福音書を読み返してみると、その事実に改めて驚くことでしょう。聖書は私たちに、信じることや、祈ること、そして愛することを教えています。そのキーワードを別々に調べてみると、聖書には「信じること」が272回、「祈ること」が371回、「愛すること」が714回、登場しています。それに対して、「与えること」は、なんと2162回も登場するのです(リック・ウォレン著)。なぜでしょうか?それは神様が与える方であり、私たちにもその模範にならう者となって欲しいからです。

お金の使い方に私たちの本音が出ます。人は自分が価値を認める物に対しては、出費を惜しまないのです。グルメな人は、外食や食べ物にお金を惜しまないでしょう。車が好きな人は、食費を削ってでもローンを組みます。趣味が生きがいの人は、無理をしてでもそれを継続し、教育熱心な人は、子供の習い事のために、自分の趣味を我慢します。お金だけではありません。私たちは、自分にとって大切なことのためには、時間も、労力も、惜しみなくつぎ込むのです。しかし、それほど価値がないと思うと、とたんに「もったいない」と出し惜しみをするのです。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです(マタイ6:21)」。あなたの宝は、今、どこにあるでしょうか?信仰とは「あなたを信じます」「あなたを賛美します」「あなたを愛します」と言うことだけではありません。聖書には「自分のからだをもって、神の栄光を表しなさい(Ⅰコリント6:20)」とあります。本当の愛とは、自分のからだをもって、また自分の宝をもって、痛みを伴っても、具体的に表されるものなのです。あなたのお金の使い方、あなたの時間の使い方、あなたの生活上の優先順位。それが、すなわち、あなたの「心」であり「信仰」なのです。

聖書には金持ちの青年が登場します(マタイ19:16-22)。彼は「尊い先生」と言ってイエス様に近づいて来ました。しかし彼の本心は、自分の「尊さ」を示すことにありました。彼は自分の正しさを、これでもかと主張しています。しかしイエス様は、そんな彼をいつくしんで「あなたの持ち物を売り払って…」と言われました。どんなに立派なことを言っていても、人の本心はそこに現れるからです。すると、彼は顔を曇らせ、その場を立ち去ってしまいました…。ちなみにこの話は「イエスが道に出て行かれると(17)」と始まっています。その道はエルサレムへと続く道です。イエス様は今から十字架上で、ご自身を捧げようとしておられたのです。

イエス様は十字架上で、命を捧げ、私たちへの愛を表してくださいました。そのイエス様が言われます。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです(ルカ9:24)」。◇どうか私たちが、惜しまずに与えられた者として、惜しまずに与え、惜しまずに捧げるものとなることができますように。永遠のいのちは、その人のものだからです。

子どもたちよ。私たちは、
ことばや口先だけで愛することをせず、
行いと真実をもって愛そうではありませんか。
(Ⅰヨハネ3章18節)

習慣2-6「祈り~主の祈り⑤~」マタイ6章13節

今日はいよいよ最後の主の祈りですが、その祈りは「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」です。でもなぜか、この部分にだけカッコが付けられています。脚注にも「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。ルカ福11章にも、この句はありません。イエス様はこの部分を教えられなかったのでしょうか?そんなことはありません。この句がなければ、祈りとして突然プツンと終わっていることになり、あまりにも不自然です。おそらく、こう祈るのが当時の習慣であり記すまでもなかったか、各自が自分の言葉で頌栄をおぎなって祈れるようにと、マタイらが配慮したと考えられます。(J.Jeremias,Unknown Saying of Jesus,1957)

国と力と栄とは、とこしえにあなたのもの・・・、との祈りに込められた思いは何でしょう。ハイデルベルグ信仰問答には、大変分かりやすく「・・・(主)あなたこそが私たちの王、また全ての力ある方であり、・・・私たちにではなく、あなたの聖なる御名が、永遠に賛美されるためです」とまとめられています。日本人は「君が代」を歌うとき、「君が代」すなわち「天皇の治世」が千代に八千代に続くことを願って歌います。しかしクリスチャンは、王の王であり、力強い、栄光の主のご支配(神の国)が、永遠に続くことを願って、この主の祈りを締めくくるのです。

またアーメンとはどういう意味でしょうか?アーメンは、もともとヘブライ語の「アーマン(その通りです)」からきています。それがギリシャ語のアーメンになり、指導者の語ったことに対する同意や、祈りの最後に「そのごとくなりますように」との気持ちを込めて唱えられるようになりました。ところで私たちは、自分の祈ったことに対して、心から「アーメン」と言っているでしょうか?神様は、私たちのうわべではなく、心を見られます(Ⅰサム16:7)。「御国が来ますように」「御心がなりますように」「人を赦します」など、それが私たちの本心でしょうか?主は口先ではなく、心からのアーメンをともなった祈りを求められています!

また私たちは、真実な主に信頼として、アーメンと祈ります。聖書にはこうあります。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン(エペソ3:20-21)」。私たちは自分でも、何を祈るべきなのか分からないときがあります。時には、まったく的外れなことを祈っているときもあるでしょう。また時には、人が祈っているその祈りに同意できないときもあるかもしれません。しかしそんな時でも私たちは「私たちの思いを超えて施すことの出来るお方」を信じてアーメンと告白することが出来るのです。

最後に私たちは、イエス様ご自身を求めてアーメンと言います。主の祈りは「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ」と天を見上げて始まりました。しかし祈りが進むうちに、私たちの目線は徐々に下がって来ていないでしょうか?その目をもう一度天に向けて、力強くアーメンと告白することが大切です!聖書は「しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン(黙22:21)」と結ばれています。私たちも最後にもう一度天を仰いで「御国が来ますように」「イエス様来て下さい(マラナタ)」との願いを込めて「アーメン」と主を呼ぶのです(黙3:14)。涙も、悲しみも、必ず終わることを信じて・・・(黙21:4)。

主の祈りは、天を見上げて始まり、天を見上げて終わっています。あなたの祈りはどうでしょうか?うつむいて始まり、うつむいて終わっていませんか?自分自身の内面や、周りの状況ばかり見ていても、そこからは何も生まれません。◇私達が天を見上げて心から祈る時、天の窓がひらき私たちは光に包まれるのです!

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
詩篇34篇5節

習慣2-5「祈り~主の祈り④~」 マタイ6章13節

今日の祈りは「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい」です。注意して下さい。「試みに勝てるように」ではなく「会わせないで下さい」なのです。なぜでしょう?それは私たちが罪や誘惑に対して、非常に弱い存在だからです。聖書には「愚か者は自信が強い(箴14:16)」とありますが、ペテロもかつては「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません(マルコ14:30)」と豪語しました。しかしその直後、三度もイエスを「知らない」と否んでしまったのです。自分の弱さを素直に認め、主に信頼する人こそ本当に強い人なのです。私たちの周りには、どんな「試み」があるでしょうか?

まず第一に、私たちの「肉の弱さ」があります。聖書には「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです(マタイ26:41)」とあります。私たちの内には様々な「弱さ」があります。肉的な弱さ、性的な弱さ、お金に対する弱さなど…。欲そのものは罪ではありませんが、弱さに負けて、欲に支配されてしまい、神様に従えなくなるとき、それがすなわち「罪」なのです(ヤコブ1:15)。そして罪が熟すと、死(神との交わりの断絶)を生みます(ロマ6:23)。

また「この世」からの試みもあります。誰でも激しい迫害には、もちろん会いたくありません。しかし今日のキリスト教界において、むしろ大きな問題なのは「教会の世俗化」です。気付かなういうちに、じわじわと、教会の中に「この世の基準」が入り込んで来て、クリスチャンが聖書ではなく、この世の基準にしたって生きるようになっているのです。すると教会全体は、徐々に霊的な輝きと塩気を失っていくのです(マタイ5:13-14)。デマスはこの世を愛してパウロから去っていきました(Ⅱテモ4:10)。あなたもいつの間にか、教会の交わりよりも、この世の交わりを愛していませんか?御言葉よりも、テレビや雑誌に影響されていませんか?

そして悪魔からの試みです(Ⅰペテロ5:8)。厳密にいえば、上に挙げた試みもすべて、悪魔からの試みだと言うことができます。なぜなら悪魔は私たちの弱みにつけこんで罪を犯させ、時には天使の振りをして(Ⅱコリ11:14)私たちの心を奪い、神様や教会に対する私たちの情熱を失わせるからです。気をつけて、自分の心を見張って下さい(箴4:23)!悪魔は、ほえたけるししのように、私たちを狙っています(Ⅰペテロ5:8)。ときに悪魔は、私たちの正義感さえも利用して、分裂分派をもたらしたり、間違った福音で、教会全体を滅茶苦茶にかき乱したりもします。

私たちはどうしたら、これらの試みに勝利することが出来るのでしょうか。イエス様は、荒野にて悪魔の試みを受けられたとき「御言葉」によって勝利をとられました(マタイ4章)。誘惑にあってから急いで聖書を読むのではなく、普段から御言葉に親しみ、心に御言葉を蓄えておくことが大切なのです。またその他に、悪魔に対抗する武具として「真理の帯」「正義の胸当」「福音の靴」「信仰の大盾」「救いのかぶと」「御言葉の剣」などがあります。そしてその最後には、どんな時でも御霊によって祈りなさいとあります(エペソ6章)。祈りこそ最大の防御であり武器です。

でもやはり重要なのは、自分の弱さを謙遜に認め、誘惑を避けることです。あの若いヨセフのように、誘惑からは急いで立ち去ることはもちろん(創39:12)、誘惑を感じるようなところには近づかないことが賢明でしょう。そして普段から「試みに会わせないで、悪からお救いください」と心から祈ることです。◇しかしそれでも人間は弱いのです。隠し事をすることで罪を増幅します。何でも話せるクリスチャンの友人をつくり、互いに励まし合って、祈り合うことが大切です。

兄弟たち。あなたがたの中では、
だれも悪い不信仰の心になって
生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
「きょう。」と言われている間に、
日々互いに励まし合って、だれも罪に
惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
(ヘブル3章12-13節)