2009年9月17日木曜日

習慣2-3「祈り~主の祈り②~」マタイ6章11節

前回に引き続き、主の祈りを共に学びたいと思います。今日の祈りは「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」です。前回私たちが学んだ祈りは「御名をあがめさせたまえ」「御国を来たらせたまえ」「みこころを…地にもなさせたまえ」と、じつに神様中心の祈りでした。しかし今日の祈りは「日々の糧について」の祈りです。なぜ、このような祈りが大切なのでしょうか?

神様は、私たちが何でも具体的に祈ることを喜ばれます。聖書にも「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい(ピリピ4:6)」と勧められていますし、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです(ヤコブ4:2-3)」と記されています。最初から、何が御心なのかは分からないのですから、まずは何でも感謝と願いを持って、祈ってみることが大切なのです。

でも「感謝をもって捧げる祈り」とは、どういう祈りでしょうか?それは言い換えれば「すべての良い贈り物は天の父からくる(ヤコブ1:17)」との深い信頼を抱いて祈る事です。天の父なる神様は、空の鳥さえも養ってくださるお方です(マタイ6:26)。なおさら天の父は、愛する子である私達を、良いもので満ちたらせ、生活の必要にも応えてくださるのです。私たちは生活の細部にわたるまでも、このお方に信頼するという信仰告白も含め「日ごとの糧を与えたまえ」と祈るのです。

私たちの信仰は、いつの間にか霊肉二元論に陥っていないでしょうか?主の御心を求めない「自己中心な祈り」も問題ですが、日々の生活のことや、自分の願いをいっさい求めない「現実味離れした祈り」も同様に問題です。それはグノーシスと呼ばれる古くからの異端です。主は私たちに、御心を第一に求めつつも、「日ごとの糧のこと」から「こんなこと祈っていいのということ」まで「何でも」「具体的」に祈ることを願っておられるのです。それが健全な信仰でもあります。

また、この祈りは、私たちの勤勉と表裏一体です。確かに「空の鳥」は、種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしないかもしれません。しかし私たちは「もっと優れた者」として、労働する「責任」を与えられています。「日ごとの糧を与えて下さい」と祈っても、実際に手足を動かさなければ、食べることはできないでしょう。不安や、欲望から、ガツガツ働くのではありません。私たちは、いざとなったら天からマナを降らせるお方に信頼して「感謝しながら」「喜んで」働くことができるのです。それがクリスチャンの「勤勉」であり「祈り」です。

同時に、私たちは「日ごとの糧を」と祈るたびに、イエス・キリストのことを覚えます。ギリシャ語で「日ごとの糧」は「毎日のパン」です。そしてイエス様は、ご自分の事を「わたしがいのちのパンです(ヨハネ6:35)」と紹介されています。人は、決してパンだけで生きるのではありません、いのちのパンである、イエス・キリストと、そのことばを必要としているのです(マタイ4:4)。天の父は「いのちのパン」であるイエス様を、私たちに与えてくださいました。またそれだけでなく、それと一緒に、すべてのものを、恵んでくださるお方なのです(ローマ8:32)。

あなたは毎日の生活の中で、どんなことでも主に祈っていますか?いつの間にか「こんなこと祈っても」「これは神様に関係ない」などと決め付けてしまっていることはないですか?もう一度心を開いて、全領域において主に信頼しましょう。
またあなたは、いのちのパンを毎日食べていますか?私たちの体は、私たちが食べたもので出来ています。同様に、私たちの魂は、私たちが食べているもので出来ているのです!もしいのちのパンを食べるなら、あなたはいのちに溢れます!

私たちの日ごとの糧(パン)を
きょうもお与えください。
マタイ6章11節

イエスは言われた。
「わたしがいのちのパンです。」
ヨハネ6章35節

2009年9月14日月曜日

習慣2-2「祈り~主の祈り①~」マタイ6章9-10節

私たちは「霊的成長をもたらす4つの習慣」を学んでいますが、前回から(大分間が空きましたが)第2の習慣の「祈り」について学んでいます。前回は、特に「間違った祈り」について学びました。「偽善者の祈り」と「異邦人の祈り」が間違った祈りでした。それに対し今日は「正しい祈り」を学びます。

弟子たちは、イエス様に「祈りを教えて下さい」とお願いしました(ルカ11:1)。なぜでしょうか?バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えていたので、自分たちも教えて欲しいとの思いがあったのでしょう。しかしそれ以上に、イエス様と共に歩む中で、その不思議なわざや、権威ある言葉の背後には、イエス様の「祈りの生活(習慣)」があることに、弟子たちは気が付いたからです。だから「私たちにも祈りを教えて下さい」「あなたのようになりたいです」と願い出たのです。

そんな彼らにイエス様は「主の祈り」を教えられました(マタイ6:9)。イエス様は「だから、こう祈りなさい」と語られました。しかもこれは「命令形」です。だから私たちが主日礼拝のたびに「主の祈り」を祈ることは実に聖書的なのです。しかしこの「主の祈り」を丸暗記し、一字一句間違えずに繰り返すよりも、もっと大切なことがあります。それは「意味を理解し心から祈ること」です。「こう祈りなさい」とは「(これを模範として)このように祈りなさい」との意味だからです。

その祈りは「天にいます私たちの父よ」と始まります。ギリシャ語では「父よ」と始まりますが、日本語では「天にいます」と始まっています。これは素晴らしい訳だと思います。なぜなら、まず始めに、私たちの目が「天」に向けられるからです。日常の生活を送る中で、私たちの目はどうしても、この地上に「張り付いて」しまいます。しかしいったんその目を地上から「剥がし」天の御国を見上げるのです。その時状況は八方ふさがりでも、天上は開けていることに気が付くでしょう。

その天におられる全知全能の主が「私たちの父」となられたのです。その時私たちは次の詩篇を思い出します。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは(8:4)」。またその背後にイエス様の十字架の御わざがあることを覚えます。十字架の故に、私たちは罪を赦され神の子とされたのです(ロマ8章)。そのことを思い巡らすとき、自然に「御名があがめられますように」との賛美が溢れます。

続いて、見上げた天の「御国が来ますように」と祈ります(6:10)。これは天に昇っていかれたキリストが再臨し、新しい天と地が来ますようにとの願いが込められています(黙21章)。しかしそれだけではありません。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」とも言われました。「御国」とは、神様の御支配(統治)という意味もあるのです。神様が治められるところ、真の平和が実現します(エペ2:14)。この祈りは、次の祈りと密接に繋がっているのです。

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」。天においては、何の矛盾もありませんが、この地上は矛盾だらけです。悪者が栄え、正しい者が虐げられ、病気、飢餓、貧困の問題なども。その地上に、神様の「みこころ(愛と義)」が実現しますように、と祈るのです。しかも祈りっぱなしではありません。ハイデルベルグ信仰問答には「一人一人が、自分の勤めと召命を、天の御使いのように、喜んで忠実に果せるようにして下さい」という祈り、と説明されています。

どうでしょうか?あなたの祈りは、この地上の事柄を中心とした祈りでしょうか?それとも天を見上げ、神の御心をまず第一に求める祈りでしょうか?また祈るだけでなく、自分がその御心に従うという「決意」と「覚悟」を伴った祈りでしょうか?イエス様の祈りには、それが備わっていました。

「わが父よ。できますならば、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、
あなたのみこころのように、なさってください。」
(マタイ26:39)