2009年9月14日月曜日

習慣2-2「祈り~主の祈り①~」マタイ6章9-10節

私たちは「霊的成長をもたらす4つの習慣」を学んでいますが、前回から(大分間が空きましたが)第2の習慣の「祈り」について学んでいます。前回は、特に「間違った祈り」について学びました。「偽善者の祈り」と「異邦人の祈り」が間違った祈りでした。それに対し今日は「正しい祈り」を学びます。

弟子たちは、イエス様に「祈りを教えて下さい」とお願いしました(ルカ11:1)。なぜでしょうか?バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えていたので、自分たちも教えて欲しいとの思いがあったのでしょう。しかしそれ以上に、イエス様と共に歩む中で、その不思議なわざや、権威ある言葉の背後には、イエス様の「祈りの生活(習慣)」があることに、弟子たちは気が付いたからです。だから「私たちにも祈りを教えて下さい」「あなたのようになりたいです」と願い出たのです。

そんな彼らにイエス様は「主の祈り」を教えられました(マタイ6:9)。イエス様は「だから、こう祈りなさい」と語られました。しかもこれは「命令形」です。だから私たちが主日礼拝のたびに「主の祈り」を祈ることは実に聖書的なのです。しかしこの「主の祈り」を丸暗記し、一字一句間違えずに繰り返すよりも、もっと大切なことがあります。それは「意味を理解し心から祈ること」です。「こう祈りなさい」とは「(これを模範として)このように祈りなさい」との意味だからです。

その祈りは「天にいます私たちの父よ」と始まります。ギリシャ語では「父よ」と始まりますが、日本語では「天にいます」と始まっています。これは素晴らしい訳だと思います。なぜなら、まず始めに、私たちの目が「天」に向けられるからです。日常の生活を送る中で、私たちの目はどうしても、この地上に「張り付いて」しまいます。しかしいったんその目を地上から「剥がし」天の御国を見上げるのです。その時状況は八方ふさがりでも、天上は開けていることに気が付くでしょう。

その天におられる全知全能の主が「私たちの父」となられたのです。その時私たちは次の詩篇を思い出します。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは(8:4)」。またその背後にイエス様の十字架の御わざがあることを覚えます。十字架の故に、私たちは罪を赦され神の子とされたのです(ロマ8章)。そのことを思い巡らすとき、自然に「御名があがめられますように」との賛美が溢れます。

続いて、見上げた天の「御国が来ますように」と祈ります(6:10)。これは天に昇っていかれたキリストが再臨し、新しい天と地が来ますようにとの願いが込められています(黙21章)。しかしそれだけではありません。イエス様は「神の国は、あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」とも言われました。「御国」とは、神様の御支配(統治)という意味もあるのです。神様が治められるところ、真の平和が実現します(エペ2:14)。この祈りは、次の祈りと密接に繋がっているのです。

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」。天においては、何の矛盾もありませんが、この地上は矛盾だらけです。悪者が栄え、正しい者が虐げられ、病気、飢餓、貧困の問題なども。その地上に、神様の「みこころ(愛と義)」が実現しますように、と祈るのです。しかも祈りっぱなしではありません。ハイデルベルグ信仰問答には「一人一人が、自分の勤めと召命を、天の御使いのように、喜んで忠実に果せるようにして下さい」という祈り、と説明されています。

どうでしょうか?あなたの祈りは、この地上の事柄を中心とした祈りでしょうか?それとも天を見上げ、神の御心をまず第一に求める祈りでしょうか?また祈るだけでなく、自分がその御心に従うという「決意」と「覚悟」を伴った祈りでしょうか?イエス様の祈りには、それが備わっていました。

「わが父よ。できますならば、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、
あなたのみこころのように、なさってください。」
(マタイ26:39)

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