2009年12月12日土曜日

習慣3-3「与えること、捧げること」 マラキ12:1-8

今回は「与えること、捧げること」の最終回ですが、特に「十一献金」について教えられたいと思います。ある人は、この十一献金の話をすると「教会もお金かぁ」といって躓きます。しかしある人は、聖書にそう書いてあるという理由だけで、人知れずそれを実行しています。そう考えると、これは従順における一つの試金石なのだと思います。聖書には「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです(ヨハ14:15)」 とあります。愛とか、信仰とは、何でしょうか?言葉でないことは確かです。結局、主と主のからだ(教会)とを本当に愛しているかという問題なのです。

そもそも十一献金とは、どこからきているのでしょうか?多くの人は、モーセの律法からだと思っていますが、そうではありません。その起源は、信仰の父アブラハムまで遡ります。アブラハムは祭司メルキゼデクに「すべての物の十分の一」をささげました(創14:20)。またヤコブは、石を枕にしたあの荒野で「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守る…」との契約を授けられました。その応答として、ヤコブは「すべて、あなたが私に賜る物の十分の一を、私は必ずあなたにささげます(創28:22)」と誓願を立てたのです。つまり十分の一は、神の民が始まって以来、受け継がれてきたDNAなのです。

そしてモーセがそれを正式な律法としました。申命記にはこうあります。「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。…あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために(14:22-23)」。
律法は、よく誤解されますが、ただの義務ではなく、そこには意味があるのです。律法主義の間違いとは、その意味を見失い、行いだけが強調されることです。そしてこの十分の一に込められた意味と目的とは「あなたの神、主を恐れることを学ぶため」です。ですから、これは子供の頃から教えられるべき事柄なのです。

つまり、十分の一を惜しむとは、主への恐れがないのです。同じ申命記には、こんな言葉もあります。「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに、富を築き上げる力を与えられる(からです)。8:17-18)」。そもそも「これは全部、私ものものだ」と思っているから、惜しくなるのです。しかし、その考え自体が傲慢なのです。私たちに「富を築き上げる力」を与えて下さるのは神様です。そういった感謝を形にして、十分の一をささげるのです。

しかし、やっぱり十分の一というのは、旧約時代だけの基準なのでしょうか?いいえ違います。イエス様は確かに「正義、憐れみ、誠実」といった、心の問題の方が大切だと教えられましたが「十分の一もおろそかにしてはいけません(マタ23:23)」とはっきり教えられました。つまりイエス様は、律法を無効にされたのではなくて、律法以上の事を教えられたのです。律法以上の事とは、機械的に十分の一を捧げるのではなく、心から、喜んで、豊かに捧げることなのです(Ⅱコリ9:6-8)。

アナニヤとサッピラは反面教師です(使徒5:1-10)。彼らは確かに地所を売り、多額の献金をしました。しかしそこには、主への恐れも、感謝も、誠実もなかったのです。彼らは「これで全部です」といい、神と人を欺いたのです。私たちも、もし「これで十分の一です」と言いながら、その一部を手元に残しておくなら、彼らと同じではありませんか。◆貧しいやもめに倣いましょう(マコ12:41-44)。彼女にとっては、十分の一とか、そんな数字はどうでもよいことでした。ただ心から、神様に感謝の心を表したかっただけなのです。イエス様は、彼女の信仰を称賛されました。額の多少ではなく「心」です!ただし行いの伴った心なのです。

ひとりひとり、
嫌々ながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めた通りにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
Ⅱコリント9:7

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