2010年1月20日水曜日

習慣4-1「共に生きること」 マルコ12:13-34

年も改まり、いよいよ「霊的成長をもたらす4つの習慣」の4つ目(最後)となります。それは「共に生きること」です。イエス様は「熱いか、冷たいか、どちらかであってほしい(黙3:15)」と言われましたが、それはまず「霊的(信仰的)に冷たく」あっては欲しくないということです。しかし「熱ければ良い」というものでもありません。的外れな熱心さほど、神様の御名を汚し、人を傷つける者はありません。戦争はいつも、間違った熱心さから生まれます。大切なのは、まずは正しく理解(しようと)すること。そしてそれを行動に移し、日常の生活の中で習慣化していくことです。そうすることによって、私たちの信仰は、本当の意味で熱く、成熟した者となるのです。

パリサイ人、ヘロデ党、そしてサドカイ人の熱心さは、的外れでした。イエス様は彼らに言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか(12:24)」。これはサドカイ人に言われた言葉ですが、パリサイ人、ヘロデ党も同じです。彼らは確かに熱心でした。パリサイ人は律法尊守において熱心で、サドカイ派やヘロデ党は、政治的に熱心でした。そして彼らは、いつも、律法の解釈論争に明け暮れ、それぞれの立場を主張しあっていたのです。しかしそんな彼らが、今日の箇所ではイエス様を「陥れるために(12:13)」結託し、手を取り合って、論争を吹きかけているのです。なんと滑稽な姿でしょうか。

彼らの熱心さは、どこから出ていたのでしょう。まず一つは「間違った動機から」です。彼らは、非常に、宗教的に熱心なようでありながら、実は、ユダヤ教の主導権争いをしていたのです。ですから、そのためだったら(その主導権をイエスが奪おうものなら)手を取り合って協力し、イエス様を攻撃したのです。そしてもう一つは「間違った信仰理解から」でした。彼らはイエス様が言われた通り、聖書の言葉を知っていましたが、理解していませんでした。自分に都合のよい良いうに理解し、自分の義を立証し、他人を攻撃する道具としていたのです。そして何よりも彼らは、イエス様が「どなたであるか」を全く理解していませんでした。

それに対して、最後に一人の律法の専門家が立ちました。彼は、やり取りの一部始終を見聞きした上で、イエス様にこう質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか(12:28)」。裏を返せば、イエス様があまりに見事にこたえられるのを聞いて「この方なら『一番大切なこと』を知っておられると感じた」ということです。これこそ、聖書を読む正しい態度です。自分の知識をひけらかすためではなく、他人を攻撃するためでもなく、神様のみこころ(一番大切なこと)を知りたいと切に願い、主ご自身を慕い求め、へりくだって読むのです。

イエス様は、その問いに対して、こう答えられました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません(12:30-31)」。神様を愛することは、もちろん大切です。しかし、それは「あなたの隣人を、あなた自身のように愛する」ことにおいて完成するのです。この二つは表裏一体であり、切り離す事はできません。

あなたの信仰は、みこころにかなった信仰でしょうか。あなたの熱心さは、本当に神様への愛から出ていますか?それとも、自分の祝福のためや、自分のよい評判のためでしょうか?◆またあなたの熱心さは、隣人への愛となって実を結んでいるでしょうか?いつの間にか、あなたの信仰は、独りよがりになっていませんか?どうか私たちの信仰が、主への愛から生じ、隣人への愛と向かいますように。

イエスは彼が賢い返事をしたのを見て
言われた。
「あなたは神の国から遠くない。」
マルコ12章34節

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