2010年2月4日木曜日

習慣4-4「共に生きること」 ローマ14章 ガラテヤ6章

私たちは今、クリスチャンの交わりについて学んでいますが、それがどのようなものなのか、ヨハネの手紙第一1章7節に良く記されています。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。クリスチャンの交わりは「聖い交わり」です。もし私たち一人一人が「光の中を歩んでいるなら」そして「そういった者同士が交わりを共にするなら」御子イエスの血が、ますますその交わりを、内側から聖めて下さるのです。

クリスチャンの交わりの原則は「さばき合わないこと」です。もしも私たちの交わりが、聖霊によって完全に支配されているならば、そこには「霊的な自浄作用」が働いているのです。ですからあなたがあえて罪を指摘しなくても、主ご自身がその人に罪を悟らせ、悔い改めに導いてくださるのです。私たちにできるのは、人をさばくことではなく、むしろ最初から人が躓かないように「躓きになるものを置かないこと」です(ロマ14:13)。つまり、聖書から出ていない、自分達の伝統やしきたり、暗黙の了解や勢力図など、余計な事に友を巻き込むなということです。

また「あなたのためだから」という善意の押しつけは控えましょう。私たちの熱心は、時に「自分が正しいと思うこと」を人にもおしつける「お節介」や「過干渉」となって現れます。しかし気をつけて下さい。それもあなたの「支配欲」です。それによってあなたは、本当にその人を育てたいのではなく、いつまでも自分の助けを必要とする「無力な子供」としておきたいのです。しかし主は言われます。「このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです(ロマ14:4)」。すべての聖徒は主のものです。過干渉、お節介は慎みましょう。

しかし現実問題として、交わりには色々な事が起こります。時には、自浄作用が働かず、兄弟姉妹が罪にとらわれていることもあるでしょう。また、一人では立ち上がることができず、助けを求めている兄弟姉妹がいるかもしれません。それでも、主が直接に語りかけられる事を待つべきでしょうか?それでもお節介を控えるべきなのでしょうか?いいえそんな事はありません。主は、私たちが「助け合い」「赦し合い」「愛し合う」ことを望んでおられるのです。ただし「正しい心で」です!どんなに良い事でも「正しい心」から出ていなければ、それは有害です。

正しい心とは、第一に「柔和な心」です。本当の意味で人を変えるのは「愛」です。厳しく非難し、叱ることにも、一定の効果はあるかもしれませんが、根本的な解決にならず、交わりに「しこり」を残してしまいます。そもそも、私たちは「同じ主のしもべ」ではありませんか。私たちに、兄弟姉妹を叱る権利はありません。あくまで兄弟姉妹の一人として「愛を持って、柔和に諭す」に留めるべきです。もし、それができなければ、むしろ黙っているべきです。また自分の手に負えない時には、隠さず、教会(牧師と役員会)に告げる事も大切です(マタイ18:17)。

また第二に、正しい心とは「謙遜な心」です。まるで自分が神様のようになって、人をさばいていてはいけません。聖書には「誰でも立派でもない自分を、何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです(ガラ6:3)」とあります。立場が変われば、自分も同じような誘惑に陥ってしまうかもしれないのです。そういう同じ目線に立って、互いの重荷を負い合っていくことが大切なのです。

交わりとは「互いの重荷を負い合うこと」です。交わりの中で、あなたは人を助け、人に助けられます。また人を許すだけではなく、人に許されます。そうして、先の者が後になり、後の者が先になるのです。◆シスター渡辺和子は「愛することは、許されること」と表現しました。そういう生きた交わりの中で、キリストの愛の律法は全うさるのです。

互いの重荷を負い合い、
そのようにして
キリストの律法を全うしなさい。
(ガラテヤ6章2節)

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