2010年4月12日月曜日

習慣4-10「共に生きること」 マタイ18章、21章

交わりというテーマについて、いよいよ最後の学びとなりました。最後のテーマは「罪の告白」です。なぜこのテーマなのか、それはこの「罪の告白」こそ、クリスチャンの交わりの特徴であり、「罪の告白」のあるところに、真実な交わりもあるからです。逆にいえば「もし私たちが、自分に罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真実は私たちのうちにはない(Ⅰヨハネ1:8)」のです。

しかしそれは言うほど簡単なことではありません。以前こんな詩(うた)を読んだことがあります。「打ち明けて、損をしたりと、思えたり…」。思わず苦笑いをしてしまうような詩ですが、誰もがこんな経験をしたことがあるのではないでしょうか?本心を打ち明けて、かえって傷ついたり、誤解されたり、噂になってしまったり…。そして、いつの間にか、私たちは自分を隠すことを覚え、時にはそうすることが「大人になること(成長すること)」だと思い込んでいるのです。

でもそれは、聖書的な価値観ではありません。ヤコブ書にはこうあります。「ですからあなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります(5:16)」。「互いに罪を言い表すですって!?」と驚いた方もいるでしょう。世間的には当然、罪は隠すものです。またクリスチャンの中でも、罪の告白は、神様にだけすればよい、と思っている人が以外とたくさんいるのです。しかし聖書によれば、罪とは「互いに」告白され、「人の前に」明らかにされ、祈られ、癒されるべき問題なのです。もちろん相手は「義人の祈りは」とある通り、口の堅い、成熟した信者に限ります。

なぜ告白しなきゃいけないのでしょうか。バテシェバ事件の後、罪を隠していたダビデは、その心境をこう表現しています。「私は黙っていたときには、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは御手が、昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は夏のひでりでかわききったからです(詩篇32:3-4)」。罪を隠し続けるとき、私たちの心身は深刻な影響を受け、時には本当に病気になってしまいます。そして人との交わりも、神様との交わりも破壊され、私たちはますます孤立になり、心は渇ききってしまうのです。しかし正直に自分の罪を、人にも告白する時、私たちの心は癒され、自由にされるのです。なぜなら人間関係の問題は、人間関係の中でも癒される必要があるからです。そして恥を忍んで人に告白する時、私たちは人格的にも砕かれ、謙遜な者へと造り変えられていくのです。

その癒しは、単なる気分の問題ではありません。実際「聖徒の交わり」には、それほどの「責任」と「使命」と「霊的な権威」が与えられているのです。マタイにはこうあります。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです(18:18)」。また「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません(16:18)」。もし私たちが、互いに罪を告白し、互いのために祈るなら、その罪は天においても赦されているのです!その祈りの前には、地獄の門も、悪魔も、無力なのです!

私たちの教会には、「互いのために祈り合う」雰囲気があるでしょうか?ここで罪を告白したら、真剣に怒られるかもしれないけど、真剣に祈ってもらえるという安心感があるでしょうか?◆イエス様は「わたしの家は祈りの家と呼ばれる(マタ21:13)」と言われました。祈るために、教会は存在するのです!その祈りを妨げるもの何でしょう?プライドでしょうか?恐れでしょか?誰かではなく、あなたが心の鎧を脱ぎ棄て、正直になる時、教会の中に告白する文化が生まれ、互いに祈り合う、真実な交わりが生まれるのです。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
(Ⅰヨハネ1:9)

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