2009年7月16日木曜日

習慣1-2 「みことば ~デボーションの恵み~」

前回私たちは、霊的な成長のためには、「みことば」によるところの「義の訓練」が大切であると学びました。だから、礼拝説教をしっかり聞きなさい、聞いて反芻し、実行する者になりなさい、と学んだのです。みことばに関しては、それで十分なのではないでしょうか?しかし、そうではないのです。

誤解を恐れずに言うならば、礼拝説教だけに依存する信仰は危険です。それは信仰生活の「牧師依存」につながるからです。いつまでたっても、牧師に料理してもらわなければ、みことばを食べることも、消化することもできないというのが牧師依存です。リビングライフ編集者のハ・ヨンジョ牧師はこう警告します。「そのような信仰生活を続けていると、自分ひとりで神を探し求めたり、祈ったり、みことばを読んだりできなくなってきます。しかも、この牧師に祈ってもらっても効果(?)がなく、あの牧師に祈ってもらわなければいけないと考えるようになるのです」。それは一見熱心そうに見えても、牧師を神とする、偶像崇拝です。

何が足りないのでしょうか?それは、個人的な神との交わり、デボーションです。デボーションとは、QT(静思の時)とも言いますが、リック・ウォレン師はそれを「神を知るために、聖書と祈りを通して、神と個人的に交わることである」と定義します。その他にも「デボーションとは霊的な日々の糧を得ることである」とか、「聖書の中の宝探しの時間である」とか様々な言い方ができるでしょう。それは一朝一夕に結果の出るものではありませんが、その継続が人生に大きな違いを生み出します。「時が来れば刈り取ることになります(ガラ6:9)」とある通りです。

デボーションにはどんな祝福が伴うのでしょうか?一番良い表現が「主イエスに似た者とされること」だと思います。聖書にはこうあります。「しかし人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。私たちはみな顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです(Ⅱコリ3:16,18)」。私たちは、一緒に時間を過ごした人と、似てくる傾向があります。ならば、イエス様と交われば交わるほど、私たちはイエス様に似てくるのです!

しかしデボーション至上主義は危険です。ハ・ヨンジョ牧師はこう警告します。「何事でも極端に傾くことはよくありません。QT歴の長い人がQTに疲れているのを見ることがあります。QTが機械的になってはいけません。QTをしながら疲れたのなら、少しお休みすることをお勧めします。再び力を得、生き生きとした関係を回復することの方が重要です」と。またリック・ウォレン師も「もし悪魔が『おいお前デボーションをさぼったな!』と非難するようなことがあっても、真に受けてしまわないように気をつけましょう」と言います。サタンは元来「訴える者」です(黙12:10)。彼らはそうやって、主との交わりの「喜び」を奪い去るのです。

動機はいつも「愛」です。好きな人とは一分一秒でも長くいたいものです。デボーションも同じです。祝福があるからデボーションをするのでもなく。しないと祝福がなくなるからするのでもありません!イエス様は私たちの心に入って、共に食事(親しい交わり)をしたいと願われているのです(黙3:20)。私たちもイエス様を一番愛しているから、一日の初めの時間を「捧げる(devote)」のです。それが本当の「デボーション(devotion)」です。この習慣こそ毎日の「献身」です。

でも改めてなぜ朝なのでしょう?ハドソン・テーラーはこう答えました。「楽器のチューニングは当然コンサート前に行うものです。(前日では早すぎるし)終わってからでは遅いのです」と。私たちの心のチューニングも、いつの間にかずれていないでしょうか?一日の初めに主の御声を聞き、本番に臨みたいものです。

さて、イエスは、
朝早くまだ暗いうちに起きて、
寂しい所へ出て行き、
そこで祈っておられた。
(マルコ1章35節)

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