2009年7月26日日曜日

習慣1-3「みことば~心が燃やされる、聖書の読み方~」

私たちは今まで「礼拝説教の聞き方」と「デボーションの恵み」について学んできましたが、それらはいずれも「みことば」についてでありました。聖書には「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル4:12)」とありますが、みことばは、その切れ味の鋭さのゆえ、読み方によっては危険な道具にもなるのです。

エマオへの途上で、ふたりの弟子は暗い顔で論じあっていました。イエス様が彼らの傍らを歩いておられるにもかからず、彼らは「ナザレのイエスが十字架に架けられたこと(ルカ24:19~)」を嘆いていたのです。彼らの目はさえぎられていました(24:16)。彼らの目は何によって、さえぎられていたのでしょうか?悲しみでしょうか?不信仰でしょうか?恐れでしょうか?いずれにしても、彼らの目はさえぎられ、イエス様がすぐ近くにおられたのに、気づくこともできなかったのです。

私たちの心の目は開いているでしょうか。心の目が閉じたまま、聖書を読んだり、聞いたりしても、全然心に響いてこないでしょう。そのような時、私たちは「このデボーションテキストに、もしくは、この教会の礼拝や説教者に問題があるのでは」と考えてしまうかもしれません。しかしそうではありません。たとえそうであっても「神のことばは生きていて、力がある」のです。みことばが心に響いて来ないなら、むしろ「私たちの内にある何かが」邪魔をしているのです。

私たちの心の目をふさぐものは何でしょうか。時には「単なる体調不良」ということもあるでしょう。もしそうなら十分な休息をとることをお勧めします。しかし、より深刻なのは「霊的な体調不良」です。それは「許さない心」や「隠された罪」、「結局自分の考えを優先する不従順」や「自分の考えが正しいという傲慢」によってもたらされます。そのようなことを続けていると、徐々に、みことばを読んでも、聞いても、何も感じず、感動もしなくなってくるのです。もしそうなってしまったら、すぐにでも悔い改め、まず主との関係を回復しなければなりません。

私たちは、開かれた心で、「正しく」聖書を読まなければ」なりません。それは「聖書を体系的に、文脈にそって読むこと」です。正反対は、まるでおみくじのように、聖書の一節だけを抜き出して、自分の状況にインスタントに適応するという読み方です。そのような読み方は、私たちの生活に平安どころか、不安定をもたらし、家族をはじめ、周りの者まで振り回してしまうでしょう。イエス様はエマオの途上で、聖書全体から、丁寧に、時間をかけて説き明かされたではありませんか。そういった基本を大事にしながら、聖霊の導きに従って読むことが大切なのです。

こんな話があります。ある人が「主よもう駄目です。私の人生に対するあなたの御心を教えて下さい」と祈り、目をつむって聖書をガバッと開きました。するとそこには『ユダは出て行って首をつった(マタ27:5)』とありました。これはおかしいと思った彼は、もう一度、天を仰ぎ、勢いよく聖書を開きました。するとそこには『あなたも行って同じようにしなさい(ルカ10:37)』とあるではありませんか。彼は「主よこれが最後です」と、もう一度聖書を開きました。するとそこには『あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい(ヨハ13:27)』とありました…。

あなたの心の目は開いていますか?また、あなたの聖書の読み方は、正しい読み方でしょうか?主の前にへりくだり、心をつくし、思いをつくし、知力を尽くして、聖書を読みなさい。そうすれば、あなたの心は熱く燃やされるのです!

そこでふたりは話し合った。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24章32節)

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