2010年1月28日木曜日

習慣4-3「共に生きること」 エゼキエル13章 エペソ2章

前回の学びの冒頭、私たちは詩篇133篇の御言葉を読みました。そこにはこんな交わりの姿が描かれていました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである(1,3)」。私たちは、誰もがそんな「交わり(共同体)」を求めているのではないでしょうか?そこに集うことによって、本当に心満たされ、胸おどり、いのちを経験したいのではないでしょうか?そのような交わりは、どのようにして生まれるのでしょう?

人の努力によってでしょうか?崇高なビジョンをかかげた、カリスマ性のある人が、熱意を持って行動を起こせば、そのような理想的な交わりが実現するのでしょうか?そのような努力によっても、一時的で熱狂的な何かが生まれるかもしれません。しかしそのような運動がたどる末路はだいたい似ています。最初のうちは純粋な理想を掲げているのですが、その中心人物が権力をもった瞬間、その人物の影響力を保つための共同体となってしまうのです。そこに本当の「自由」と「平和」はなく、あるのは「恐怖」と「支配」です。理想の根底に欲があるからです。

現代の教会でも、似たようなことは起こります。その人とっては、自分の「やり方」や「経験」そして「理想」こそが「神」なのです。そして自分の理想を中心とした教会を立てようとするのです。思い通りにならないと「この教会はなってない」「あの人(たち)は何でこう考えないんだ」と兄弟姉妹さばき、自分自身も喜びを失っていきます。気をつけて下さい。それは「支配欲」です。そういった「人間的な理想」は、共同体を「破壊」します。困ったことに、本人がそれに気づくことはなかなか難しいのです。本人は「純粋な理想」だと信じているのですから。

しかし反対に「理想がない」ことも問題です。今日読んだエゼキエル書にはこうありました。「実に彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう(10)」。この「彼ら」とは当時の預言者たちのことです。彼らは民にへつらい、本来は悔い改めを迫るべきところで「そのままでいいんだよ」と気休めをいい、危機が迫っていても「大丈夫だ」と預言していたのです。その「平安」は、まるで表面だけを「しっくい」で塗り固めた「壁」のようです。その内側は、もろく罪にまみれていました。

イエス様は、そのような偽りの平安を崩されます!マタイ福音書にはこうあります。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです(34)」。これはイエス様が、むやみに争いを起こされるという意味では決してありません。そうではなく私たちが、もし偽りの平安に安住しているならば、イエス様はその「平和」を崩され、私たちを本当の平和へと導いて下さる、という意味なのです。

本当の平和はどこから来るのでしょうか?それはイエス・キリストからです。エペソ書には「キリストこそ私たちの平和である(2:14)」とあります。また「敵意(罪)は十字架によって葬り去られ、キリストは平和を述べられました(2:16:17)」とも記されています。私たちは、十字架の赦しを体験することによってのみ、本当の平安を体験することができます。そして赦された者として、自分の十字架を負い、神と人とに仕えていく時、本当の意味で、平和をつくる者とされるのです。

一度塗り固めた「人生のしっくい」をめくることは、一度固まった「かさぶた」をめくるようなものです。それには痛みが伴います。時には、自分の意に反して、めくられてしまうことがあるかもしれません。しかしそこに「本当の癒し」と「平和」があるのです。

実に、彼らは、
平安がないのに『平安』と言っている。
しっくいで上塗りする者どもに言え。
『それは、すぐはげ落ちる』。
キリストこそ私たちの平和である。
(エゼキエル13:10-11、エペソ2:14抜粋)

2010年1月22日金曜日

習慣4-2「共に生きること」 マルコ 9:30-37

前回から「霊的成長をもたらす4つの習慣」の最後の習慣を学んでいますが、そのタイトルにもなっている「共に生きること」は、主の御心の中でも、最上位に属する事柄です。イエス様は私たちに、神を愛することと同時に、隣人を愛することを求められます。信仰とはきれいごとではありません。それは現実の生活の中で、隣人を愛することによって完成するのです。ですからイエス様は、そのことを学ぶために、信じる者たちが「信仰による共同体」を形成する事を求められます。イエス様ご自身も、弟子を訓練するにあたって、12人を選び、彼らといつも一緒に住み、御言葉を教えられました(マコ3:13)。人は交わり中で、「生きた信仰(いのち)」を学んでいくのです。

信仰の成長(成熟)には忍耐と時間が必要です。未熟な信仰とは、いくつかの言葉で定義できますが、その一つに「自分が何者であるのかわからない状態」ということができるでしょう。この時の弟子たちが、まさにそうでした。彼らは互いに「誰が一番偉いか」と論じ合っていましたが、実のところ彼らは、まだ何も分かっていなかったのです(マコ9:19)。例えばイエス様が「人の子は人々の手に引き渡されて、彼らはこれを殺す。しかし三日目によみがえる(30)」とご自身の十字架について真剣に語られているのに、彼らはそれを理解できず、ただ恐れていました。そして「誰が一番偉いか」という呑気な議論に明け暮れていたのです。

イエス様に「道で何を論じ合っていたのですか(33)」と尋ねられた時、彼らは黙ってしまいました。さすがの彼らにも、それが「さもしい議論」であることが分かったのでしょう。でもこれは人ごとではりません。私たちも、何者でもないのに「誰が一番偉いか」「誰が一番正しいか」などと、さもしい議論に走っていることはないでしょうか?口には出さなくても、心の中でそう感じていることはないでしょうか?人に何かを言われた時「あなたには言われたくない」と思うことはないでしょうか? それは結局「自分の方が上」だと思っているからではないですか?

交わりを破壊する思い、それは「誰が上か」との考えです。そう考え出したとたん、私たちの間には対立が生まれます。そして詩篇133篇に描かれている「麗しい共生」は、たちまちに打ち破られるのです。コリント人への手紙第一の中には、そのような悲しい状態に陥った教会の姿が記されています。彼らはめいめいに「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言い争い、誰が一番偉い、誰が一番正しいと、いがみ合っていました。でも彼らは肝心な事を忘れていました。教会は主のものであり、主の前に、自分達は何者でもないということを。そしてパウロやケパもその主のしもべにすぎないという事を、です。

そんな彼らにイエス様は教えられました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい(35)」。イエス様は「人の先に立ちたい」という思い自体を否定されませんでした。そこまで否定する時、おかしな禁欲主義になってしまうのでしょう。そこでイエス様は、もしそう願うなら「みなに仕える者となりなさい」と教えられたのです。そして子どもを呼び寄せ、この幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる。またわたしを受け入れる者は、神を受け入れると、教えられました。

己の身を低くしなさい。人に仕えることは、恥ずかしい事ではありません。人を赦すことは、損をすることではありません。新しい人を受け入れることは、自分の居場所を失うことではありません。他の人が自分よりも祝福される事は、自分がみじめになることではありません。◆ 思い切って、人を受け入れ、人に仕え、人を赦し、人を祝福する時、あなたは本当の意味で、十字架にまで従われた、イエス様を心に受け入れているのです。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、
みなのしんがりとなり、
みなに仕える者となりなさい。
マルコ9章35節

2010年1月20日水曜日

習慣4-1「共に生きること」 マルコ12:13-34

年も改まり、いよいよ「霊的成長をもたらす4つの習慣」の4つ目(最後)となります。それは「共に生きること」です。イエス様は「熱いか、冷たいか、どちらかであってほしい(黙3:15)」と言われましたが、それはまず「霊的(信仰的)に冷たく」あっては欲しくないということです。しかし「熱ければ良い」というものでもありません。的外れな熱心さほど、神様の御名を汚し、人を傷つける者はありません。戦争はいつも、間違った熱心さから生まれます。大切なのは、まずは正しく理解(しようと)すること。そしてそれを行動に移し、日常の生活の中で習慣化していくことです。そうすることによって、私たちの信仰は、本当の意味で熱く、成熟した者となるのです。

パリサイ人、ヘロデ党、そしてサドカイ人の熱心さは、的外れでした。イエス様は彼らに言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか(12:24)」。これはサドカイ人に言われた言葉ですが、パリサイ人、ヘロデ党も同じです。彼らは確かに熱心でした。パリサイ人は律法尊守において熱心で、サドカイ派やヘロデ党は、政治的に熱心でした。そして彼らは、いつも、律法の解釈論争に明け暮れ、それぞれの立場を主張しあっていたのです。しかしそんな彼らが、今日の箇所ではイエス様を「陥れるために(12:13)」結託し、手を取り合って、論争を吹きかけているのです。なんと滑稽な姿でしょうか。

彼らの熱心さは、どこから出ていたのでしょう。まず一つは「間違った動機から」です。彼らは、非常に、宗教的に熱心なようでありながら、実は、ユダヤ教の主導権争いをしていたのです。ですから、そのためだったら(その主導権をイエスが奪おうものなら)手を取り合って協力し、イエス様を攻撃したのです。そしてもう一つは「間違った信仰理解から」でした。彼らはイエス様が言われた通り、聖書の言葉を知っていましたが、理解していませんでした。自分に都合のよい良いうに理解し、自分の義を立証し、他人を攻撃する道具としていたのです。そして何よりも彼らは、イエス様が「どなたであるか」を全く理解していませんでした。

それに対して、最後に一人の律法の専門家が立ちました。彼は、やり取りの一部始終を見聞きした上で、イエス様にこう質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか(12:28)」。裏を返せば、イエス様があまりに見事にこたえられるのを聞いて「この方なら『一番大切なこと』を知っておられると感じた」ということです。これこそ、聖書を読む正しい態度です。自分の知識をひけらかすためではなく、他人を攻撃するためでもなく、神様のみこころ(一番大切なこと)を知りたいと切に願い、主ご自身を慕い求め、へりくだって読むのです。

イエス様は、その問いに対して、こう答えられました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません(12:30-31)」。神様を愛することは、もちろん大切です。しかし、それは「あなたの隣人を、あなた自身のように愛する」ことにおいて完成するのです。この二つは表裏一体であり、切り離す事はできません。

あなたの信仰は、みこころにかなった信仰でしょうか。あなたの熱心さは、本当に神様への愛から出ていますか?それとも、自分の祝福のためや、自分のよい評判のためでしょうか?◆またあなたの熱心さは、隣人への愛となって実を結んでいるでしょうか?いつの間にか、あなたの信仰は、独りよがりになっていませんか?どうか私たちの信仰が、主への愛から生じ、隣人への愛と向かいますように。

イエスは彼が賢い返事をしたのを見て
言われた。
「あなたは神の国から遠くない。」
マルコ12章34節