2010年1月22日金曜日

習慣4-2「共に生きること」 マルコ 9:30-37

前回から「霊的成長をもたらす4つの習慣」の最後の習慣を学んでいますが、そのタイトルにもなっている「共に生きること」は、主の御心の中でも、最上位に属する事柄です。イエス様は私たちに、神を愛することと同時に、隣人を愛することを求められます。信仰とはきれいごとではありません。それは現実の生活の中で、隣人を愛することによって完成するのです。ですからイエス様は、そのことを学ぶために、信じる者たちが「信仰による共同体」を形成する事を求められます。イエス様ご自身も、弟子を訓練するにあたって、12人を選び、彼らといつも一緒に住み、御言葉を教えられました(マコ3:13)。人は交わり中で、「生きた信仰(いのち)」を学んでいくのです。

信仰の成長(成熟)には忍耐と時間が必要です。未熟な信仰とは、いくつかの言葉で定義できますが、その一つに「自分が何者であるのかわからない状態」ということができるでしょう。この時の弟子たちが、まさにそうでした。彼らは互いに「誰が一番偉いか」と論じ合っていましたが、実のところ彼らは、まだ何も分かっていなかったのです(マコ9:19)。例えばイエス様が「人の子は人々の手に引き渡されて、彼らはこれを殺す。しかし三日目によみがえる(30)」とご自身の十字架について真剣に語られているのに、彼らはそれを理解できず、ただ恐れていました。そして「誰が一番偉いか」という呑気な議論に明け暮れていたのです。

イエス様に「道で何を論じ合っていたのですか(33)」と尋ねられた時、彼らは黙ってしまいました。さすがの彼らにも、それが「さもしい議論」であることが分かったのでしょう。でもこれは人ごとではりません。私たちも、何者でもないのに「誰が一番偉いか」「誰が一番正しいか」などと、さもしい議論に走っていることはないでしょうか?口には出さなくても、心の中でそう感じていることはないでしょうか?人に何かを言われた時「あなたには言われたくない」と思うことはないでしょうか? それは結局「自分の方が上」だと思っているからではないですか?

交わりを破壊する思い、それは「誰が上か」との考えです。そう考え出したとたん、私たちの間には対立が生まれます。そして詩篇133篇に描かれている「麗しい共生」は、たちまちに打ち破られるのです。コリント人への手紙第一の中には、そのような悲しい状態に陥った教会の姿が記されています。彼らはめいめいに「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言い争い、誰が一番偉い、誰が一番正しいと、いがみ合っていました。でも彼らは肝心な事を忘れていました。教会は主のものであり、主の前に、自分達は何者でもないということを。そしてパウロやケパもその主のしもべにすぎないという事を、です。

そんな彼らにイエス様は教えられました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい(35)」。イエス様は「人の先に立ちたい」という思い自体を否定されませんでした。そこまで否定する時、おかしな禁欲主義になってしまうのでしょう。そこでイエス様は、もしそう願うなら「みなに仕える者となりなさい」と教えられたのです。そして子どもを呼び寄せ、この幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる。またわたしを受け入れる者は、神を受け入れると、教えられました。

己の身を低くしなさい。人に仕えることは、恥ずかしい事ではありません。人を赦すことは、損をすることではありません。新しい人を受け入れることは、自分の居場所を失うことではありません。他の人が自分よりも祝福される事は、自分がみじめになることではありません。◆ 思い切って、人を受け入れ、人に仕え、人を赦し、人を祝福する時、あなたは本当の意味で、十字架にまで従われた、イエス様を心に受け入れているのです。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、
みなのしんがりとなり、
みなに仕える者となりなさい。
マルコ9章35節

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