2009年11月17日火曜日

習慣3-1「与えること、捧げること」 マタイ6:19-24 マルコ10:17-22

霊的成長をもたらす4つの習慣、今日からはその3つ目の「与えること、捧げること」について学んでいきます。「与えること」とは、人のために与えること、「捧げること」とは、神さまのために捧げることです。私は牧師になってしばらく、このテーマで語ることに躊躇がありました。なぜなら、このテーマが人々の躓きになると感じていたからです。確かにデリケートなテーマだとは思います。しかしイエス様も、お金については大胆に語っています。霊的成長のためにも、このテーマについて、少しずつ学んでいきましょう。

実はイエス様のたとえ話の半分以上は「お金」に関することです。もう一度福音書を読み返してみると、その事実に改めて驚くことでしょう。聖書は私たちに、信じることや、祈ること、そして愛することを教えています。そのキーワードを別々に調べてみると、聖書には「信じること」が272回、「祈ること」が371回、「愛すること」が714回、登場しています。それに対して、「与えること」は、なんと2162回も登場するのです(リック・ウォレン著)。なぜでしょうか?それは神様が与える方であり、私たちにもその模範にならう者となって欲しいからです。

お金の使い方に私たちの本音が出ます。人は自分が価値を認める物に対しては、出費を惜しまないのです。グルメな人は、外食や食べ物にお金を惜しまないでしょう。車が好きな人は、食費を削ってでもローンを組みます。趣味が生きがいの人は、無理をしてでもそれを継続し、教育熱心な人は、子供の習い事のために、自分の趣味を我慢します。お金だけではありません。私たちは、自分にとって大切なことのためには、時間も、労力も、惜しみなくつぎ込むのです。しかし、それほど価値がないと思うと、とたんに「もったいない」と出し惜しみをするのです。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです(マタイ6:21)」。あなたの宝は、今、どこにあるでしょうか?信仰とは「あなたを信じます」「あなたを賛美します」「あなたを愛します」と言うことだけではありません。聖書には「自分のからだをもって、神の栄光を表しなさい(Ⅰコリント6:20)」とあります。本当の愛とは、自分のからだをもって、また自分の宝をもって、痛みを伴っても、具体的に表されるものなのです。あなたのお金の使い方、あなたの時間の使い方、あなたの生活上の優先順位。それが、すなわち、あなたの「心」であり「信仰」なのです。

聖書には金持ちの青年が登場します(マタイ19:16-22)。彼は「尊い先生」と言ってイエス様に近づいて来ました。しかし彼の本心は、自分の「尊さ」を示すことにありました。彼は自分の正しさを、これでもかと主張しています。しかしイエス様は、そんな彼をいつくしんで「あなたの持ち物を売り払って…」と言われました。どんなに立派なことを言っていても、人の本心はそこに現れるからです。すると、彼は顔を曇らせ、その場を立ち去ってしまいました…。ちなみにこの話は「イエスが道に出て行かれると(17)」と始まっています。その道はエルサレムへと続く道です。イエス様は今から十字架上で、ご自身を捧げようとしておられたのです。

イエス様は十字架上で、命を捧げ、私たちへの愛を表してくださいました。そのイエス様が言われます。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです(ルカ9:24)」。◇どうか私たちが、惜しまずに与えられた者として、惜しまずに与え、惜しまずに捧げるものとなることができますように。永遠のいのちは、その人のものだからです。

子どもたちよ。私たちは、
ことばや口先だけで愛することをせず、
行いと真実をもって愛そうではありませんか。
(Ⅰヨハネ3章18節)

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