2009年11月17日火曜日

習慣2-5「祈り~主の祈り④~」 マタイ6章13節

今日の祈りは「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい」です。注意して下さい。「試みに勝てるように」ではなく「会わせないで下さい」なのです。なぜでしょう?それは私たちが罪や誘惑に対して、非常に弱い存在だからです。聖書には「愚か者は自信が強い(箴14:16)」とありますが、ペテロもかつては「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません(マルコ14:30)」と豪語しました。しかしその直後、三度もイエスを「知らない」と否んでしまったのです。自分の弱さを素直に認め、主に信頼する人こそ本当に強い人なのです。私たちの周りには、どんな「試み」があるでしょうか?

まず第一に、私たちの「肉の弱さ」があります。聖書には「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです(マタイ26:41)」とあります。私たちの内には様々な「弱さ」があります。肉的な弱さ、性的な弱さ、お金に対する弱さなど…。欲そのものは罪ではありませんが、弱さに負けて、欲に支配されてしまい、神様に従えなくなるとき、それがすなわち「罪」なのです(ヤコブ1:15)。そして罪が熟すと、死(神との交わりの断絶)を生みます(ロマ6:23)。

また「この世」からの試みもあります。誰でも激しい迫害には、もちろん会いたくありません。しかし今日のキリスト教界において、むしろ大きな問題なのは「教会の世俗化」です。気付かなういうちに、じわじわと、教会の中に「この世の基準」が入り込んで来て、クリスチャンが聖書ではなく、この世の基準にしたって生きるようになっているのです。すると教会全体は、徐々に霊的な輝きと塩気を失っていくのです(マタイ5:13-14)。デマスはこの世を愛してパウロから去っていきました(Ⅱテモ4:10)。あなたもいつの間にか、教会の交わりよりも、この世の交わりを愛していませんか?御言葉よりも、テレビや雑誌に影響されていませんか?

そして悪魔からの試みです(Ⅰペテロ5:8)。厳密にいえば、上に挙げた試みもすべて、悪魔からの試みだと言うことができます。なぜなら悪魔は私たちの弱みにつけこんで罪を犯させ、時には天使の振りをして(Ⅱコリ11:14)私たちの心を奪い、神様や教会に対する私たちの情熱を失わせるからです。気をつけて、自分の心を見張って下さい(箴4:23)!悪魔は、ほえたけるししのように、私たちを狙っています(Ⅰペテロ5:8)。ときに悪魔は、私たちの正義感さえも利用して、分裂分派をもたらしたり、間違った福音で、教会全体を滅茶苦茶にかき乱したりもします。

私たちはどうしたら、これらの試みに勝利することが出来るのでしょうか。イエス様は、荒野にて悪魔の試みを受けられたとき「御言葉」によって勝利をとられました(マタイ4章)。誘惑にあってから急いで聖書を読むのではなく、普段から御言葉に親しみ、心に御言葉を蓄えておくことが大切なのです。またその他に、悪魔に対抗する武具として「真理の帯」「正義の胸当」「福音の靴」「信仰の大盾」「救いのかぶと」「御言葉の剣」などがあります。そしてその最後には、どんな時でも御霊によって祈りなさいとあります(エペソ6章)。祈りこそ最大の防御であり武器です。

でもやはり重要なのは、自分の弱さを謙遜に認め、誘惑を避けることです。あの若いヨセフのように、誘惑からは急いで立ち去ることはもちろん(創39:12)、誘惑を感じるようなところには近づかないことが賢明でしょう。そして普段から「試みに会わせないで、悪からお救いください」と心から祈ることです。◇しかしそれでも人間は弱いのです。隠し事をすることで罪を増幅します。何でも話せるクリスチャンの友人をつくり、互いに励まし合って、祈り合うことが大切です。

兄弟たち。あなたがたの中では、
だれも悪い不信仰の心になって
生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
「きょう。」と言われている間に、
日々互いに励まし合って、だれも罪に
惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
(ヘブル3章12-13節)

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