2009年11月17日火曜日

習慣2-6「祈り~主の祈り⑤~」マタイ6章13節

今日はいよいよ最後の主の祈りですが、その祈りは「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」です。でもなぜか、この部分にだけカッコが付けられています。脚注にも「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。ルカ福11章にも、この句はありません。イエス様はこの部分を教えられなかったのでしょうか?そんなことはありません。この句がなければ、祈りとして突然プツンと終わっていることになり、あまりにも不自然です。おそらく、こう祈るのが当時の習慣であり記すまでもなかったか、各自が自分の言葉で頌栄をおぎなって祈れるようにと、マタイらが配慮したと考えられます。(J.Jeremias,Unknown Saying of Jesus,1957)

国と力と栄とは、とこしえにあなたのもの・・・、との祈りに込められた思いは何でしょう。ハイデルベルグ信仰問答には、大変分かりやすく「・・・(主)あなたこそが私たちの王、また全ての力ある方であり、・・・私たちにではなく、あなたの聖なる御名が、永遠に賛美されるためです」とまとめられています。日本人は「君が代」を歌うとき、「君が代」すなわち「天皇の治世」が千代に八千代に続くことを願って歌います。しかしクリスチャンは、王の王であり、力強い、栄光の主のご支配(神の国)が、永遠に続くことを願って、この主の祈りを締めくくるのです。

またアーメンとはどういう意味でしょうか?アーメンは、もともとヘブライ語の「アーマン(その通りです)」からきています。それがギリシャ語のアーメンになり、指導者の語ったことに対する同意や、祈りの最後に「そのごとくなりますように」との気持ちを込めて唱えられるようになりました。ところで私たちは、自分の祈ったことに対して、心から「アーメン」と言っているでしょうか?神様は、私たちのうわべではなく、心を見られます(Ⅰサム16:7)。「御国が来ますように」「御心がなりますように」「人を赦します」など、それが私たちの本心でしょうか?主は口先ではなく、心からのアーメンをともなった祈りを求められています!

また私たちは、真実な主に信頼として、アーメンと祈ります。聖書にはこうあります。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン(エペソ3:20-21)」。私たちは自分でも、何を祈るべきなのか分からないときがあります。時には、まったく的外れなことを祈っているときもあるでしょう。また時には、人が祈っているその祈りに同意できないときもあるかもしれません。しかしそんな時でも私たちは「私たちの思いを超えて施すことの出来るお方」を信じてアーメンと告白することが出来るのです。

最後に私たちは、イエス様ご自身を求めてアーメンと言います。主の祈りは「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ」と天を見上げて始まりました。しかし祈りが進むうちに、私たちの目線は徐々に下がって来ていないでしょうか?その目をもう一度天に向けて、力強くアーメンと告白することが大切です!聖書は「しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン(黙22:21)」と結ばれています。私たちも最後にもう一度天を仰いで「御国が来ますように」「イエス様来て下さい(マラナタ)」との願いを込めて「アーメン」と主を呼ぶのです(黙3:14)。涙も、悲しみも、必ず終わることを信じて・・・(黙21:4)。

主の祈りは、天を見上げて始まり、天を見上げて終わっています。あなたの祈りはどうでしょうか?うつむいて始まり、うつむいて終わっていませんか?自分自身の内面や、周りの状況ばかり見ていても、そこからは何も生まれません。◇私達が天を見上げて心から祈る時、天の窓がひらき私たちは光に包まれるのです!

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
詩篇34篇5節

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