2010年3月18日木曜日

習慣4-9「共に生きること」 創世記1章 ヨハネ17章

交わりというテーマについての学びも、残りわずかとなってきました。そこで、どうしても語っておかなければならないことがあります。それは、私たち人間が「神のかたち」に創造されているということです。少々神学的で、とっつきにくいテーマなので避けてきましたが、これを語らなければ「交わり」について、最も重要な部分を、語っていないことになってしまいます。

私たち人間は「神のかたち」に創造されました(創1:27)。それはもちろん、神様が私たち人間のような「姿かたち」をしていたということではありません。この「かたち」という言葉には「関係」という意味が込められています。もし週刊誌のタイトルに「新しい夫婦のかたち」と書いてあったら、私たちはすぐに「あぁ、新しい夫婦の関係像について書いているのかぁ」と理解するでしょう。それと同じです。また創世記の1章26節には、神様のことが「われわれ」と記されています。これはヨハネ1章とあわせて読めばよく分かるように三位一体の神を表しています。そして三位一体の神が、完全な一致を守っているように、はじめの人間も、完全な一致を保ち、愛し合う存在として、この世に誕生したのです(創2:25)。

しかし「神のかたち」は「罪」によって、大きく損なわれてしまいました。続く創世記3章を読めばわかるように、人間は神様の教えに背き、自分の判断を神の言葉よりも重んじ(自分が神のようになり)、互いに罪をなすりつけ合う存在となってしまいました。また4章には、兄弟のカインとアベルの間に「ねたみ」が入り込み、人類最初の殺人事件まで起こります。罪の破壊力は何と大きいことでしょう!人間の堕落以降「神のかたち」は大きく損なわれ、亀裂は深まるばかりでした。

イエス様の弟子たちも例外ではありません。彼らは事あるごとに「誰が一番偉いか」と論じ合っていました(マコ9:34)。また時には、数人でこっそり「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください(マコ10:34)」と直訴しに来ました。彼らは全然「ひとつ」になっていなかったのです。心のうちは「ねたみ」とか「ライバル心」でいっぱいでした。そんな彼らに向かい、イエス様は「わたしたちと同様に、彼らが一つとなる(ヨハ17:11)」ことの大切さを説かれたのです。これはイエス様が十字架にかかられる直前の言葉です。つまり遺言(最も大切な言葉)として、そう教えられたのです。なぜでしょうか?

それは、それこそが「残される者の使命」であるからです。私たちが、この世に存在している意味は何でしょうか?それは罪によって破壊されてしまった、この「神のかたち」を回復することではありませんか!今も世界を見渡せば、神様と人間との関係は壊れたままです。そして人間同士の関係も、人間と被造物の関係も壊れたままなのです。私たちは、人間的な方法でそれを回復するのではなく、まずは自分の罪を悔い改め、赦された者として謙遜に、隣人にもイエス様の愛を届け、和解のつとめ(世界の再創造)を成し遂げたいと願っているのです(Ⅱコリ5:18-20)。

そして教会こそが、その再創造の最重要拠点なのです。もしも私たちが、心から「愛し合い」「赦し合い」「仕え合う」なら、私たちの「交わり」の中に、失われた「神のかたち」が回復されるのです。そして人々は、その「交わり(可視的福音)」と「ことば(和解の福音)」を通して、神の愛を知るのです。じつに私たちは、そのためにこの世に存在し、神様からこの世に派遣されているのです。教会とは「エクレシア」「呼び出された者の集い」です。私たちはこの世に存在しながら、この世のものではなく、この神の国の使命に生きているのです(ヨハ17:17-18)。

あなたは交わりに、これほどの意味があることを認めていますか。交わりを、単なる自分の楽しみや、居場所にしてしまうことが、いかに聖書から外れているかが分かりますか?どうか教会が、真の愛と、聖さに溢れた場所でありますように。

あなたがわたしを世に遣わされたように、
わたしも彼らを世に遣わしました。
ヨハネ17章18節

2010年3月12日金曜日

習慣4-8「共に生きること」 ローマ12章 Ⅰコリント12‐13章

以前、交わりというテーマを突き詰めていく時「教会とは一体何なのか?」というテーマに至ると説明しました。そして聖書は、教会のことを「キリストのからだ」と呼んでいます。なぜでしょうか?それは、教会における「多様性と一致」をあらわすのに、これ以上の譬えはないからです。「からだ」のように、教会もまた「いのちにあふれる共同体」であり、成長するのです。

そして、一人一人は「各器官」です。器官には、色々な働きをするものがあります。心臓、腎臓、肝臓など、それぞれの働きは全然違いますが、どれ一つが欠けても、体の健康は損なわれてしまいます。大切なのは、それぞれ自分に与えられた賜物(使命)を全うすることなのです。しかも聖書の基準はさらに高く「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい(12:10)」とも記されています。そうした兄弟姉妹を尊ぶ心構えがあって、はじめて、バラバラな器官が一つとされるのです。

どんな器官も劣等感を持つべきはありません。器官の働きに「違い」はあっても「優劣」はないのです。人間の体には、いっけん重要でない器官もあります。例えば盲腸がそれです。しかし、キリストのからだでは「比較的尊くない器官を、ことさらに尊び(Ⅰコリ12:23)」、盲腸が痛めば体全体が痛むように「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ(Ⅰコリ12:26)」「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい(ロマ12:15)」と教えられているのです。また肉体の盲腸であれば、切り捨てても良いかもしれませんが、キリストのからだにおいては「私はあなたを必要としない(Ⅰコリ12:21)」と言ってはいけないのです。

しかし、罪という癌に侵された器官は別です。その器官だけが痛んでいるのではなく、周りの器官にも害を与え、聖書に基づいた治療も受け入れないような時、その器官は取り除かれなくてはいけません(マタ18:27、Ⅱテサ3:14‐15)。今日の教会はそうした教会戒規(かいき)を軽んじ、人情ばかりを重んじる傾向にありますが、私たちには、正しく戒規を執行し、からだ全体の「健康」と「聖さ」を保つ責任があります。しかし単なる外科手術と違うところは、取り除いた器官が、悔い改めて戻ってくるなら、七度を七十倍するまで赦して、受け入れなければならないことです(マタ18:22)。聖さがあるところに、本当の愛もあるのです。

また各器官は傲慢になるべきではありません。人から見て、目立つ賜物が、神様の目から見て尊いとはかぎりません。聖書にはこうあります。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません(Ⅰコリ3:1‐2)」。どんなに素晴らしい働きをして、人からの称賛を受けても、愛がないなら、それは無価値です。

大切なのは「愛」です。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません(Ⅰコリ13:4)」。逆にいえばあなたの中に、兄弟姉妹に対する「ねたみ」や「高慢な心」があるならば、その奉仕は愛の心から出ていないのです。ですから「何をするか」ではなく「どのような心でするか」に気を配り、自分の心を見張りなさい。私たちはすぐに「心」を失い「行い」ばかりを追い求めてしまうのです。その奉仕は無価値であるばかりか、有害なのです。

あなたの賜物は何ですか。あなたはその賜物を、神と人とのために用いていますか?キリストのからだの一器官として、自分の役割をしっかり果たしていますか?そして全てを「愛の心」で行っていますか?愛もまた主からの賜物です。自分の中からは生まれてきません。だから熱心に求めなさいと勧められているのです。

あなたがたは、
よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(Ⅰコリ12章31節)

その中で、一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13章13節)

2010年3月5日金曜日

習慣4-7「共に生きること」 マタイ27章 ルカ23章

現代社会が失ったもののひとつに「人に対する敬意」があげられます。その傾向はインターネットの世界において顕著ですが、人は良い意味でも、悪い意味でも、自分の思ったことや、感じたことを、そのままストレートに相手にぶつけるようになってきました。立場や上下関係は関係ありません。むしろ一般の市民が、権力者や有名人、大企業に対して「自分の思う正義」を突き付け、コケ下ろして、時にはそれを楽しんでいるようにも見えます。そしてマスコミが火に油を注ぐのです。考え方によってはそれも貴重な世論なのですが、行き過ぎれば「集団リンチ」ではないでしょうか?そしてその背後には、妬みや、欲求不満など、ドロドロした感情がうず巻いているのです。

2000年前、人々は、イエス様にも同じようなことをしました。祭司たちは言いました。「彼(イエス)は他人を救ったが自分は救えない。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、我々は信じるから(マタ27:42)」。また、イエスの傍らで十字架にかけられていた犯罪人の一人は言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え(ルカ23:39)」。このように、めいめいが勝手なことをイエスに要求し、コケ下ろし、身も心もいたぶりました。しかもこの場合、イエス様には全く非がなかったのです。なのに人々は、自分たちの嫉妬や保身、そして罪深さを、十字架につけられたイエスを非難することによって正当化していたのです。

要求する者となる時、私たちは神と自分を見失います。動機はめちゃくちゃでも、誰かに勝手なことを要求し、攻撃することによって、あたかも自分が正しいことを言っているかのような錯覚に陥るのです。でも気をつけて下さい。その背後には、自分でも気付かないうちに、ドロドロとした感情を隠蔽(いんぺい)していることがあるのです。そして、正義の仮面をかぶり、人を責めることによって、それを正当化しているのです。でもそこには何の解決もありません。一時の満足の後に、深いむなしさと孤独が残ります。なぜなら問題(罪)はそのままだからです。

ときに「交わり」においても同じことが起こります。「教会って神の家族なのに、何でこんなに愛がないの」。「牧師だったら、もっとこうあるべきじゃないの」。「信徒だったら、もっとこうあるべきではないの」。でも悲しいかな、そのように互いに要求すればするほど、ますます交わりは貧しくなり、破壊されていくのです。今日どれほど多くの教会が、互いに要求し合い、奪い合い、傷つけ合っていることでしょうか…。まずは私たちから、それをやめなければなりません。そして、愛と慰めに満ちたコイノニア(愛の交わり)を回復するのです。そのためには…。

まずは自分自身としっかり向き合いなさい。そして、自分は何者でもないことと、自分の心の中にも、ドロドロとした感情があることを認めるのです。そしてイエス様の十字架を見上げ、その血により心を洗っていただくのです。残念ながら、それ以外に真の解決の道はありません。イエスの脇にいた、もう一人の犯罪人はそうしました。「おまえは神をも恐れないのか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください(ルカ23:40-42)」。彼は自分の罪を認め、悔い改めの道を選びました。

あなたは今日どちらの生き方を選びますか?神と人に要求する者となりますか?それとも十字架の前にへりくだるでしょうか?交わりを豊かにするのは、謙った心であり、感謝の心です。私たちが要求することをやめ、感謝し始める時、交わりは愛のうちに築かれていくのです。だから人には敬意をもって接しなさい。そして互いに感謝の言葉も忘れずに。

何も思い煩わないで、
あらゆる場合に感謝をもって
ささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いを
キリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:6-7)

習慣4-6「共に生きること」 エペソ4章 ヤコブ3章

「交わり」について学びが、これほど長くなるとは、私自身思っていませんでした。でも学べば学ぶほど、このテーマの大切さが分かってきます。なぜなら、クリスチャンの真実な交わりこそ「可視的な福音」だからです。聖書にもこう書いてあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです(Ⅰヨハネ4:12)」。どうでしょうか?私たちの交わりは、主の栄光を、いや主ご自身を、人々に現しているでしょうか?

その交わりが「聖」か「俗」か、語られている言葉によって見分けることができます。私は、たまに喫茶店で本を読むことがあります。すると突然、すぐ近くの席で、大声でおしゃべりが始まり、静寂が打ち破られる時があります。それ自体は仕方ありません。彼女たちもお金を払っているのですから。でも聞こえてくる内容に驚きます(誤解のないように、聞きたくなくても聞こえてくるのです)。その90パーセントは噂話。そして大体、情報通で声の大きなリーダー格の人が、その場を仕切っているのです。少し極端な言い方かもしれませんが、この世の交わりでは、そのように「影の噂話の支配人」が、影響力を持っているのではないでしょうか?そして他の人は、自分も陰口を言われないよう、何となく同調しているのです。

教会の交わりは大丈夫でしょうか?聖なる愛の交わり(コイノニア)と、この世の交わり(井戸端会議)を、混同してしまっていることはないでしょうか?そこで話されている言葉は、本当に主を喜ばせ、教会と人の徳を建てるのに役立つ言葉でしょうか?積極的に悪い言葉を口にはしなくても、消極的に同調していることはないでしょうか?「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます(ヤコブ3:14-18)」。

まずは主の前で静まりなさい(詩37:7)!ボンヘッファー(ドイツ神学者)は言いました「主の前で静まらない者が、交わりに出ていくなら、その者はただ俗悪な無駄話に酔っているだけである。イエス様はいつも、交わりに出て行く前に、寂しいところに退かれた」。またこうとも言っています「交わりに加わろうとしない隠遁者は、心の中で人を見下す、独善の罠に陥る」。つまり主と交わることと、兄弟姉妹と交わることは表裏一体なのです。そのどちらが欠けても、健全な霊的成長はありません。主の前で静まる者のみが、本当の交わりを築けるのです。

また、よく聞くものとなりなさい(ヤコブ1:19)。もう言い古されていることですが、人には耳が二つあるのに、口は一つしかありません。なぜでしょうか?それは、よく聞く者となるためです。まずは人の話をよく聞きましょう。自分の意見を言う前に、相手の言わんとしていることと、その言葉の背後にある気持ちをしっかり聞きなさい。またそれ以上に、主の語られる言葉をしっかり聞きなさい。毎日のデボーションと礼拝のメッセージの中に、問題解決のヒントが詰まっています。このようによく聞く者のみが、隣人に対して真実を語ることができるのです。

あなたは隣人に真実を語っていますか?真実な言葉とは「単なる事実」ではありません。事実が人を傷つけたり、辱めたりすることもあります。真実な言葉とは「愛のある言葉」です。あなたの言葉に「愛」がありますか?真実は人(教会)を生かし、偽りは破壊します。

穏やかな舌はいのちの木。
偽りの舌はたましいの破滅。(箴言15:4)

ですからあなたがたは偽りを捨て
おのおの隣人に対して真実を語りなさい。(エペソ4:25)