2010年3月5日金曜日

習慣4-7「共に生きること」 マタイ27章 ルカ23章

現代社会が失ったもののひとつに「人に対する敬意」があげられます。その傾向はインターネットの世界において顕著ですが、人は良い意味でも、悪い意味でも、自分の思ったことや、感じたことを、そのままストレートに相手にぶつけるようになってきました。立場や上下関係は関係ありません。むしろ一般の市民が、権力者や有名人、大企業に対して「自分の思う正義」を突き付け、コケ下ろして、時にはそれを楽しんでいるようにも見えます。そしてマスコミが火に油を注ぐのです。考え方によってはそれも貴重な世論なのですが、行き過ぎれば「集団リンチ」ではないでしょうか?そしてその背後には、妬みや、欲求不満など、ドロドロした感情がうず巻いているのです。

2000年前、人々は、イエス様にも同じようなことをしました。祭司たちは言いました。「彼(イエス)は他人を救ったが自分は救えない。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、我々は信じるから(マタ27:42)」。また、イエスの傍らで十字架にかけられていた犯罪人の一人は言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え(ルカ23:39)」。このように、めいめいが勝手なことをイエスに要求し、コケ下ろし、身も心もいたぶりました。しかもこの場合、イエス様には全く非がなかったのです。なのに人々は、自分たちの嫉妬や保身、そして罪深さを、十字架につけられたイエスを非難することによって正当化していたのです。

要求する者となる時、私たちは神と自分を見失います。動機はめちゃくちゃでも、誰かに勝手なことを要求し、攻撃することによって、あたかも自分が正しいことを言っているかのような錯覚に陥るのです。でも気をつけて下さい。その背後には、自分でも気付かないうちに、ドロドロとした感情を隠蔽(いんぺい)していることがあるのです。そして、正義の仮面をかぶり、人を責めることによって、それを正当化しているのです。でもそこには何の解決もありません。一時の満足の後に、深いむなしさと孤独が残ります。なぜなら問題(罪)はそのままだからです。

ときに「交わり」においても同じことが起こります。「教会って神の家族なのに、何でこんなに愛がないの」。「牧師だったら、もっとこうあるべきじゃないの」。「信徒だったら、もっとこうあるべきではないの」。でも悲しいかな、そのように互いに要求すればするほど、ますます交わりは貧しくなり、破壊されていくのです。今日どれほど多くの教会が、互いに要求し合い、奪い合い、傷つけ合っていることでしょうか…。まずは私たちから、それをやめなければなりません。そして、愛と慰めに満ちたコイノニア(愛の交わり)を回復するのです。そのためには…。

まずは自分自身としっかり向き合いなさい。そして、自分は何者でもないことと、自分の心の中にも、ドロドロとした感情があることを認めるのです。そしてイエス様の十字架を見上げ、その血により心を洗っていただくのです。残念ながら、それ以外に真の解決の道はありません。イエスの脇にいた、もう一人の犯罪人はそうしました。「おまえは神をも恐れないのか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください(ルカ23:40-42)」。彼は自分の罪を認め、悔い改めの道を選びました。

あなたは今日どちらの生き方を選びますか?神と人に要求する者となりますか?それとも十字架の前にへりくだるでしょうか?交わりを豊かにするのは、謙った心であり、感謝の心です。私たちが要求することをやめ、感謝し始める時、交わりは愛のうちに築かれていくのです。だから人には敬意をもって接しなさい。そして互いに感謝の言葉も忘れずに。

何も思い煩わないで、
あらゆる場合に感謝をもって
ささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いを
キリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:6-7)

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