2010年3月12日金曜日

習慣4-8「共に生きること」 ローマ12章 Ⅰコリント12‐13章

以前、交わりというテーマを突き詰めていく時「教会とは一体何なのか?」というテーマに至ると説明しました。そして聖書は、教会のことを「キリストのからだ」と呼んでいます。なぜでしょうか?それは、教会における「多様性と一致」をあらわすのに、これ以上の譬えはないからです。「からだ」のように、教会もまた「いのちにあふれる共同体」であり、成長するのです。

そして、一人一人は「各器官」です。器官には、色々な働きをするものがあります。心臓、腎臓、肝臓など、それぞれの働きは全然違いますが、どれ一つが欠けても、体の健康は損なわれてしまいます。大切なのは、それぞれ自分に与えられた賜物(使命)を全うすることなのです。しかも聖書の基準はさらに高く「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい(12:10)」とも記されています。そうした兄弟姉妹を尊ぶ心構えがあって、はじめて、バラバラな器官が一つとされるのです。

どんな器官も劣等感を持つべきはありません。器官の働きに「違い」はあっても「優劣」はないのです。人間の体には、いっけん重要でない器官もあります。例えば盲腸がそれです。しかし、キリストのからだでは「比較的尊くない器官を、ことさらに尊び(Ⅰコリ12:23)」、盲腸が痛めば体全体が痛むように「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ(Ⅰコリ12:26)」「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい(ロマ12:15)」と教えられているのです。また肉体の盲腸であれば、切り捨てても良いかもしれませんが、キリストのからだにおいては「私はあなたを必要としない(Ⅰコリ12:21)」と言ってはいけないのです。

しかし、罪という癌に侵された器官は別です。その器官だけが痛んでいるのではなく、周りの器官にも害を与え、聖書に基づいた治療も受け入れないような時、その器官は取り除かれなくてはいけません(マタ18:27、Ⅱテサ3:14‐15)。今日の教会はそうした教会戒規(かいき)を軽んじ、人情ばかりを重んじる傾向にありますが、私たちには、正しく戒規を執行し、からだ全体の「健康」と「聖さ」を保つ責任があります。しかし単なる外科手術と違うところは、取り除いた器官が、悔い改めて戻ってくるなら、七度を七十倍するまで赦して、受け入れなければならないことです(マタ18:22)。聖さがあるところに、本当の愛もあるのです。

また各器官は傲慢になるべきではありません。人から見て、目立つ賜物が、神様の目から見て尊いとはかぎりません。聖書にはこうあります。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません(Ⅰコリ3:1‐2)」。どんなに素晴らしい働きをして、人からの称賛を受けても、愛がないなら、それは無価値です。

大切なのは「愛」です。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません(Ⅰコリ13:4)」。逆にいえばあなたの中に、兄弟姉妹に対する「ねたみ」や「高慢な心」があるならば、その奉仕は愛の心から出ていないのです。ですから「何をするか」ではなく「どのような心でするか」に気を配り、自分の心を見張りなさい。私たちはすぐに「心」を失い「行い」ばかりを追い求めてしまうのです。その奉仕は無価値であるばかりか、有害なのです。

あなたの賜物は何ですか。あなたはその賜物を、神と人とのために用いていますか?キリストのからだの一器官として、自分の役割をしっかり果たしていますか?そして全てを「愛の心」で行っていますか?愛もまた主からの賜物です。自分の中からは生まれてきません。だから熱心に求めなさいと勧められているのです。

あなたがたは、
よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(Ⅰコリ12章31節)

その中で、一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13章13節)

0 件のコメント:

コメントを投稿