2010年4月12日月曜日

習慣4-10「共に生きること」 マタイ18章、21章

交わりというテーマについて、いよいよ最後の学びとなりました。最後のテーマは「罪の告白」です。なぜこのテーマなのか、それはこの「罪の告白」こそ、クリスチャンの交わりの特徴であり、「罪の告白」のあるところに、真実な交わりもあるからです。逆にいえば「もし私たちが、自分に罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真実は私たちのうちにはない(Ⅰヨハネ1:8)」のです。

しかしそれは言うほど簡単なことではありません。以前こんな詩(うた)を読んだことがあります。「打ち明けて、損をしたりと、思えたり…」。思わず苦笑いをしてしまうような詩ですが、誰もがこんな経験をしたことがあるのではないでしょうか?本心を打ち明けて、かえって傷ついたり、誤解されたり、噂になってしまったり…。そして、いつの間にか、私たちは自分を隠すことを覚え、時にはそうすることが「大人になること(成長すること)」だと思い込んでいるのです。

でもそれは、聖書的な価値観ではありません。ヤコブ書にはこうあります。「ですからあなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります(5:16)」。「互いに罪を言い表すですって!?」と驚いた方もいるでしょう。世間的には当然、罪は隠すものです。またクリスチャンの中でも、罪の告白は、神様にだけすればよい、と思っている人が以外とたくさんいるのです。しかし聖書によれば、罪とは「互いに」告白され、「人の前に」明らかにされ、祈られ、癒されるべき問題なのです。もちろん相手は「義人の祈りは」とある通り、口の堅い、成熟した信者に限ります。

なぜ告白しなきゃいけないのでしょうか。バテシェバ事件の後、罪を隠していたダビデは、その心境をこう表現しています。「私は黙っていたときには、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは御手が、昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は夏のひでりでかわききったからです(詩篇32:3-4)」。罪を隠し続けるとき、私たちの心身は深刻な影響を受け、時には本当に病気になってしまいます。そして人との交わりも、神様との交わりも破壊され、私たちはますます孤立になり、心は渇ききってしまうのです。しかし正直に自分の罪を、人にも告白する時、私たちの心は癒され、自由にされるのです。なぜなら人間関係の問題は、人間関係の中でも癒される必要があるからです。そして恥を忍んで人に告白する時、私たちは人格的にも砕かれ、謙遜な者へと造り変えられていくのです。

その癒しは、単なる気分の問題ではありません。実際「聖徒の交わり」には、それほどの「責任」と「使命」と「霊的な権威」が与えられているのです。マタイにはこうあります。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです(18:18)」。また「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません(16:18)」。もし私たちが、互いに罪を告白し、互いのために祈るなら、その罪は天においても赦されているのです!その祈りの前には、地獄の門も、悪魔も、無力なのです!

私たちの教会には、「互いのために祈り合う」雰囲気があるでしょうか?ここで罪を告白したら、真剣に怒られるかもしれないけど、真剣に祈ってもらえるという安心感があるでしょうか?◆イエス様は「わたしの家は祈りの家と呼ばれる(マタ21:13)」と言われました。祈るために、教会は存在するのです!その祈りを妨げるもの何でしょう?プライドでしょうか?恐れでしょか?誰かではなく、あなたが心の鎧を脱ぎ棄て、正直になる時、教会の中に告白する文化が生まれ、互いに祈り合う、真実な交わりが生まれるのです。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
(Ⅰヨハネ1:9)

2010年3月18日木曜日

習慣4-9「共に生きること」 創世記1章 ヨハネ17章

交わりというテーマについての学びも、残りわずかとなってきました。そこで、どうしても語っておかなければならないことがあります。それは、私たち人間が「神のかたち」に創造されているということです。少々神学的で、とっつきにくいテーマなので避けてきましたが、これを語らなければ「交わり」について、最も重要な部分を、語っていないことになってしまいます。

私たち人間は「神のかたち」に創造されました(創1:27)。それはもちろん、神様が私たち人間のような「姿かたち」をしていたということではありません。この「かたち」という言葉には「関係」という意味が込められています。もし週刊誌のタイトルに「新しい夫婦のかたち」と書いてあったら、私たちはすぐに「あぁ、新しい夫婦の関係像について書いているのかぁ」と理解するでしょう。それと同じです。また創世記の1章26節には、神様のことが「われわれ」と記されています。これはヨハネ1章とあわせて読めばよく分かるように三位一体の神を表しています。そして三位一体の神が、完全な一致を守っているように、はじめの人間も、完全な一致を保ち、愛し合う存在として、この世に誕生したのです(創2:25)。

しかし「神のかたち」は「罪」によって、大きく損なわれてしまいました。続く創世記3章を読めばわかるように、人間は神様の教えに背き、自分の判断を神の言葉よりも重んじ(自分が神のようになり)、互いに罪をなすりつけ合う存在となってしまいました。また4章には、兄弟のカインとアベルの間に「ねたみ」が入り込み、人類最初の殺人事件まで起こります。罪の破壊力は何と大きいことでしょう!人間の堕落以降「神のかたち」は大きく損なわれ、亀裂は深まるばかりでした。

イエス様の弟子たちも例外ではありません。彼らは事あるごとに「誰が一番偉いか」と論じ合っていました(マコ9:34)。また時には、数人でこっそり「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください(マコ10:34)」と直訴しに来ました。彼らは全然「ひとつ」になっていなかったのです。心のうちは「ねたみ」とか「ライバル心」でいっぱいでした。そんな彼らに向かい、イエス様は「わたしたちと同様に、彼らが一つとなる(ヨハ17:11)」ことの大切さを説かれたのです。これはイエス様が十字架にかかられる直前の言葉です。つまり遺言(最も大切な言葉)として、そう教えられたのです。なぜでしょうか?

それは、それこそが「残される者の使命」であるからです。私たちが、この世に存在している意味は何でしょうか?それは罪によって破壊されてしまった、この「神のかたち」を回復することではありませんか!今も世界を見渡せば、神様と人間との関係は壊れたままです。そして人間同士の関係も、人間と被造物の関係も壊れたままなのです。私たちは、人間的な方法でそれを回復するのではなく、まずは自分の罪を悔い改め、赦された者として謙遜に、隣人にもイエス様の愛を届け、和解のつとめ(世界の再創造)を成し遂げたいと願っているのです(Ⅱコリ5:18-20)。

そして教会こそが、その再創造の最重要拠点なのです。もしも私たちが、心から「愛し合い」「赦し合い」「仕え合う」なら、私たちの「交わり」の中に、失われた「神のかたち」が回復されるのです。そして人々は、その「交わり(可視的福音)」と「ことば(和解の福音)」を通して、神の愛を知るのです。じつに私たちは、そのためにこの世に存在し、神様からこの世に派遣されているのです。教会とは「エクレシア」「呼び出された者の集い」です。私たちはこの世に存在しながら、この世のものではなく、この神の国の使命に生きているのです(ヨハ17:17-18)。

あなたは交わりに、これほどの意味があることを認めていますか。交わりを、単なる自分の楽しみや、居場所にしてしまうことが、いかに聖書から外れているかが分かりますか?どうか教会が、真の愛と、聖さに溢れた場所でありますように。

あなたがわたしを世に遣わされたように、
わたしも彼らを世に遣わしました。
ヨハネ17章18節

2010年3月12日金曜日

習慣4-8「共に生きること」 ローマ12章 Ⅰコリント12‐13章

以前、交わりというテーマを突き詰めていく時「教会とは一体何なのか?」というテーマに至ると説明しました。そして聖書は、教会のことを「キリストのからだ」と呼んでいます。なぜでしょうか?それは、教会における「多様性と一致」をあらわすのに、これ以上の譬えはないからです。「からだ」のように、教会もまた「いのちにあふれる共同体」であり、成長するのです。

そして、一人一人は「各器官」です。器官には、色々な働きをするものがあります。心臓、腎臓、肝臓など、それぞれの働きは全然違いますが、どれ一つが欠けても、体の健康は損なわれてしまいます。大切なのは、それぞれ自分に与えられた賜物(使命)を全うすることなのです。しかも聖書の基準はさらに高く「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい(12:10)」とも記されています。そうした兄弟姉妹を尊ぶ心構えがあって、はじめて、バラバラな器官が一つとされるのです。

どんな器官も劣等感を持つべきはありません。器官の働きに「違い」はあっても「優劣」はないのです。人間の体には、いっけん重要でない器官もあります。例えば盲腸がそれです。しかし、キリストのからだでは「比較的尊くない器官を、ことさらに尊び(Ⅰコリ12:23)」、盲腸が痛めば体全体が痛むように「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ(Ⅰコリ12:26)」「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい(ロマ12:15)」と教えられているのです。また肉体の盲腸であれば、切り捨てても良いかもしれませんが、キリストのからだにおいては「私はあなたを必要としない(Ⅰコリ12:21)」と言ってはいけないのです。

しかし、罪という癌に侵された器官は別です。その器官だけが痛んでいるのではなく、周りの器官にも害を与え、聖書に基づいた治療も受け入れないような時、その器官は取り除かれなくてはいけません(マタ18:27、Ⅱテサ3:14‐15)。今日の教会はそうした教会戒規(かいき)を軽んじ、人情ばかりを重んじる傾向にありますが、私たちには、正しく戒規を執行し、からだ全体の「健康」と「聖さ」を保つ責任があります。しかし単なる外科手術と違うところは、取り除いた器官が、悔い改めて戻ってくるなら、七度を七十倍するまで赦して、受け入れなければならないことです(マタ18:22)。聖さがあるところに、本当の愛もあるのです。

また各器官は傲慢になるべきではありません。人から見て、目立つ賜物が、神様の目から見て尊いとはかぎりません。聖書にはこうあります。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません(Ⅰコリ3:1‐2)」。どんなに素晴らしい働きをして、人からの称賛を受けても、愛がないなら、それは無価値です。

大切なのは「愛」です。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません(Ⅰコリ13:4)」。逆にいえばあなたの中に、兄弟姉妹に対する「ねたみ」や「高慢な心」があるならば、その奉仕は愛の心から出ていないのです。ですから「何をするか」ではなく「どのような心でするか」に気を配り、自分の心を見張りなさい。私たちはすぐに「心」を失い「行い」ばかりを追い求めてしまうのです。その奉仕は無価値であるばかりか、有害なのです。

あなたの賜物は何ですか。あなたはその賜物を、神と人とのために用いていますか?キリストのからだの一器官として、自分の役割をしっかり果たしていますか?そして全てを「愛の心」で行っていますか?愛もまた主からの賜物です。自分の中からは生まれてきません。だから熱心に求めなさいと勧められているのです。

あなたがたは、
よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(Ⅰコリ12章31節)

その中で、一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13章13節)

2010年3月5日金曜日

習慣4-7「共に生きること」 マタイ27章 ルカ23章

現代社会が失ったもののひとつに「人に対する敬意」があげられます。その傾向はインターネットの世界において顕著ですが、人は良い意味でも、悪い意味でも、自分の思ったことや、感じたことを、そのままストレートに相手にぶつけるようになってきました。立場や上下関係は関係ありません。むしろ一般の市民が、権力者や有名人、大企業に対して「自分の思う正義」を突き付け、コケ下ろして、時にはそれを楽しんでいるようにも見えます。そしてマスコミが火に油を注ぐのです。考え方によってはそれも貴重な世論なのですが、行き過ぎれば「集団リンチ」ではないでしょうか?そしてその背後には、妬みや、欲求不満など、ドロドロした感情がうず巻いているのです。

2000年前、人々は、イエス様にも同じようなことをしました。祭司たちは言いました。「彼(イエス)は他人を救ったが自分は救えない。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、我々は信じるから(マタ27:42)」。また、イエスの傍らで十字架にかけられていた犯罪人の一人は言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え(ルカ23:39)」。このように、めいめいが勝手なことをイエスに要求し、コケ下ろし、身も心もいたぶりました。しかもこの場合、イエス様には全く非がなかったのです。なのに人々は、自分たちの嫉妬や保身、そして罪深さを、十字架につけられたイエスを非難することによって正当化していたのです。

要求する者となる時、私たちは神と自分を見失います。動機はめちゃくちゃでも、誰かに勝手なことを要求し、攻撃することによって、あたかも自分が正しいことを言っているかのような錯覚に陥るのです。でも気をつけて下さい。その背後には、自分でも気付かないうちに、ドロドロとした感情を隠蔽(いんぺい)していることがあるのです。そして、正義の仮面をかぶり、人を責めることによって、それを正当化しているのです。でもそこには何の解決もありません。一時の満足の後に、深いむなしさと孤独が残ります。なぜなら問題(罪)はそのままだからです。

ときに「交わり」においても同じことが起こります。「教会って神の家族なのに、何でこんなに愛がないの」。「牧師だったら、もっとこうあるべきじゃないの」。「信徒だったら、もっとこうあるべきではないの」。でも悲しいかな、そのように互いに要求すればするほど、ますます交わりは貧しくなり、破壊されていくのです。今日どれほど多くの教会が、互いに要求し合い、奪い合い、傷つけ合っていることでしょうか…。まずは私たちから、それをやめなければなりません。そして、愛と慰めに満ちたコイノニア(愛の交わり)を回復するのです。そのためには…。

まずは自分自身としっかり向き合いなさい。そして、自分は何者でもないことと、自分の心の中にも、ドロドロとした感情があることを認めるのです。そしてイエス様の十字架を見上げ、その血により心を洗っていただくのです。残念ながら、それ以外に真の解決の道はありません。イエスの脇にいた、もう一人の犯罪人はそうしました。「おまえは神をも恐れないのか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください(ルカ23:40-42)」。彼は自分の罪を認め、悔い改めの道を選びました。

あなたは今日どちらの生き方を選びますか?神と人に要求する者となりますか?それとも十字架の前にへりくだるでしょうか?交わりを豊かにするのは、謙った心であり、感謝の心です。私たちが要求することをやめ、感謝し始める時、交わりは愛のうちに築かれていくのです。だから人には敬意をもって接しなさい。そして互いに感謝の言葉も忘れずに。

何も思い煩わないで、
あらゆる場合に感謝をもって
ささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いを
キリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:6-7)

習慣4-6「共に生きること」 エペソ4章 ヤコブ3章

「交わり」について学びが、これほど長くなるとは、私自身思っていませんでした。でも学べば学ぶほど、このテーマの大切さが分かってきます。なぜなら、クリスチャンの真実な交わりこそ「可視的な福音」だからです。聖書にもこう書いてあります。「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです(Ⅰヨハネ4:12)」。どうでしょうか?私たちの交わりは、主の栄光を、いや主ご自身を、人々に現しているでしょうか?

その交わりが「聖」か「俗」か、語られている言葉によって見分けることができます。私は、たまに喫茶店で本を読むことがあります。すると突然、すぐ近くの席で、大声でおしゃべりが始まり、静寂が打ち破られる時があります。それ自体は仕方ありません。彼女たちもお金を払っているのですから。でも聞こえてくる内容に驚きます(誤解のないように、聞きたくなくても聞こえてくるのです)。その90パーセントは噂話。そして大体、情報通で声の大きなリーダー格の人が、その場を仕切っているのです。少し極端な言い方かもしれませんが、この世の交わりでは、そのように「影の噂話の支配人」が、影響力を持っているのではないでしょうか?そして他の人は、自分も陰口を言われないよう、何となく同調しているのです。

教会の交わりは大丈夫でしょうか?聖なる愛の交わり(コイノニア)と、この世の交わり(井戸端会議)を、混同してしまっていることはないでしょうか?そこで話されている言葉は、本当に主を喜ばせ、教会と人の徳を建てるのに役立つ言葉でしょうか?積極的に悪い言葉を口にはしなくても、消極的に同調していることはないでしょうか?「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます(ヤコブ3:14-18)」。

まずは主の前で静まりなさい(詩37:7)!ボンヘッファー(ドイツ神学者)は言いました「主の前で静まらない者が、交わりに出ていくなら、その者はただ俗悪な無駄話に酔っているだけである。イエス様はいつも、交わりに出て行く前に、寂しいところに退かれた」。またこうとも言っています「交わりに加わろうとしない隠遁者は、心の中で人を見下す、独善の罠に陥る」。つまり主と交わることと、兄弟姉妹と交わることは表裏一体なのです。そのどちらが欠けても、健全な霊的成長はありません。主の前で静まる者のみが、本当の交わりを築けるのです。

また、よく聞くものとなりなさい(ヤコブ1:19)。もう言い古されていることですが、人には耳が二つあるのに、口は一つしかありません。なぜでしょうか?それは、よく聞く者となるためです。まずは人の話をよく聞きましょう。自分の意見を言う前に、相手の言わんとしていることと、その言葉の背後にある気持ちをしっかり聞きなさい。またそれ以上に、主の語られる言葉をしっかり聞きなさい。毎日のデボーションと礼拝のメッセージの中に、問題解決のヒントが詰まっています。このようによく聞く者のみが、隣人に対して真実を語ることができるのです。

あなたは隣人に真実を語っていますか?真実な言葉とは「単なる事実」ではありません。事実が人を傷つけたり、辱めたりすることもあります。真実な言葉とは「愛のある言葉」です。あなたの言葉に「愛」がありますか?真実は人(教会)を生かし、偽りは破壊します。

穏やかな舌はいのちの木。
偽りの舌はたましいの破滅。(箴言15:4)

ですからあなたがたは偽りを捨て
おのおの隣人に対して真実を語りなさい。(エペソ4:25)

2010年2月18日木曜日

習慣4-5「共に生きること」Ⅰコリ3章 詩篇1篇 ロマ12章

現在、私たちは「交わり」について学んでいます。でも、もうお気づきの方もいるかもしれませんが、それは「そもそも教会とは、どのような共同体なのか」ということに直結しているのです。私たちは、この世の中で生活しています。また、救われる前にはその中にどっぷりつかっていました。ですから自分でも気付かないうちに、この世の基準で教会を見てしまっていることがあるのです。もしかしたら長年教会に通っている人も、教会に対する間違ったイメージを持ったまま歩んでいるかもしれません。そういった小さなボタンの掛け違いが、ある時、些細な出来事をきっかけに噴出し、教会を揺るがす大問題になってしまうこともあるのです。

度々紹介する、コリント教会の問題がそうでした。彼らはめいめい勝手に「私はパウロにつく」「私はアポロに」と叫んでいました。しかも彼らはみな正義感にあふれて、絶対に自分は正しいと信じて、そう叫んでいたのです。だから教会の問題は根が深いのです。そんな彼らにパウロはこう書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。ですから大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Ⅰコリ3:5-7)。この言葉より私たちは「そもそも教会がどのような共同体であるか」を知ることができます。

教会とは「そもそもチームワーク重視の共同体」なのです。パウロは「主がお与えになった分に応じて」と言いましたが、私たちにはそれぞれ、異なった賜物が与えられているのです。優劣ではありません。なのに、お互いに比べて、ねたみ合ったり、非難し合ったり、誇り合ったりするのは、何と愚かなことではないでしょうか。「ただ分に応じて」キリストとキリストのからだに仕えることが大切なのです。聖書には「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」と勧められています(ローマ12:5-10)。

また教会とは「そもそもバトンタッチの共同体」です。教会はそのようにして2000年間受け継がれてきました。牧師でも信徒でも「自分がいなくなれば、この教会はダメになる」と立場や奉仕を握りしめてはいけません。それは不健全な姿です。もちろん、無責任に奉仕を投げ出せばよいといっているのではありません。私たちは任された期間、精一杯、熱意をもって主に仕えるのです。しかし、それを握りしめず、常に後任を探し求め、育成し「責任を持って譲っていく」という努力も大切なのです。ましてや人が、自分の奉仕を奪うなどと、危機感を持つべきではありません。喜びなさい!それは、もともとあなたのものではないのですから。

教会とは「そもそも主を中心とした交わり」です。もちろん働き人は大切です。御言葉を教える人、奉仕する人、役員をする人が教会には必要です。しかしもっと大切なのは「成長させて下さる神」なのです(Ⅰコリ3:7)。この神様を中心とした教会を形成するのでなければ、その教会は「木、草、わら」で立てられた教会ではないでしょうか(12)?私たちが、教会において何かを成し遂げたとしても、すべての栄光は、主にのみささげるのです。その姿勢が聖い教会をたてあげます!

あなたはいつの間にか、働き人に依存していませんか?その人がいなくなれば、自分の信仰がダメになると思っていませんか?またあなたはいつの間にか、奉仕に依存していませんか?その奉仕がなくなると、自分の信仰がダメになると思っていませんか?もしもそうならば、余分なものを主に明け渡し、水路に植わった一本の木になりなさい。ただ主ご自身を喜んでいた、初めの愛に戻りなさい。そうすることによって、あなたは本当の意味で主の栄光を輝かせる、恵みに溢れた、聖いしもべとなることができるのです。

まことに、その人は
主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。

詩篇1篇2~3節

2010年2月4日木曜日

習慣4-4「共に生きること」 ローマ14章 ガラテヤ6章

私たちは今、クリスチャンの交わりについて学んでいますが、それがどのようなものなのか、ヨハネの手紙第一1章7節に良く記されています。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。クリスチャンの交わりは「聖い交わり」です。もし私たち一人一人が「光の中を歩んでいるなら」そして「そういった者同士が交わりを共にするなら」御子イエスの血が、ますますその交わりを、内側から聖めて下さるのです。

クリスチャンの交わりの原則は「さばき合わないこと」です。もしも私たちの交わりが、聖霊によって完全に支配されているならば、そこには「霊的な自浄作用」が働いているのです。ですからあなたがあえて罪を指摘しなくても、主ご自身がその人に罪を悟らせ、悔い改めに導いてくださるのです。私たちにできるのは、人をさばくことではなく、むしろ最初から人が躓かないように「躓きになるものを置かないこと」です(ロマ14:13)。つまり、聖書から出ていない、自分達の伝統やしきたり、暗黙の了解や勢力図など、余計な事に友を巻き込むなということです。

また「あなたのためだから」という善意の押しつけは控えましょう。私たちの熱心は、時に「自分が正しいと思うこと」を人にもおしつける「お節介」や「過干渉」となって現れます。しかし気をつけて下さい。それもあなたの「支配欲」です。それによってあなたは、本当にその人を育てたいのではなく、いつまでも自分の助けを必要とする「無力な子供」としておきたいのです。しかし主は言われます。「このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです(ロマ14:4)」。すべての聖徒は主のものです。過干渉、お節介は慎みましょう。

しかし現実問題として、交わりには色々な事が起こります。時には、自浄作用が働かず、兄弟姉妹が罪にとらわれていることもあるでしょう。また、一人では立ち上がることができず、助けを求めている兄弟姉妹がいるかもしれません。それでも、主が直接に語りかけられる事を待つべきでしょうか?それでもお節介を控えるべきなのでしょうか?いいえそんな事はありません。主は、私たちが「助け合い」「赦し合い」「愛し合う」ことを望んでおられるのです。ただし「正しい心で」です!どんなに良い事でも「正しい心」から出ていなければ、それは有害です。

正しい心とは、第一に「柔和な心」です。本当の意味で人を変えるのは「愛」です。厳しく非難し、叱ることにも、一定の効果はあるかもしれませんが、根本的な解決にならず、交わりに「しこり」を残してしまいます。そもそも、私たちは「同じ主のしもべ」ではありませんか。私たちに、兄弟姉妹を叱る権利はありません。あくまで兄弟姉妹の一人として「愛を持って、柔和に諭す」に留めるべきです。もし、それができなければ、むしろ黙っているべきです。また自分の手に負えない時には、隠さず、教会(牧師と役員会)に告げる事も大切です(マタイ18:17)。

また第二に、正しい心とは「謙遜な心」です。まるで自分が神様のようになって、人をさばいていてはいけません。聖書には「誰でも立派でもない自分を、何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです(ガラ6:3)」とあります。立場が変われば、自分も同じような誘惑に陥ってしまうかもしれないのです。そういう同じ目線に立って、互いの重荷を負い合っていくことが大切なのです。

交わりとは「互いの重荷を負い合うこと」です。交わりの中で、あなたは人を助け、人に助けられます。また人を許すだけではなく、人に許されます。そうして、先の者が後になり、後の者が先になるのです。◆シスター渡辺和子は「愛することは、許されること」と表現しました。そういう生きた交わりの中で、キリストの愛の律法は全うさるのです。

互いの重荷を負い合い、
そのようにして
キリストの律法を全うしなさい。
(ガラテヤ6章2節)

2010年1月28日木曜日

習慣4-3「共に生きること」 エゼキエル13章 エペソ2章

前回の学びの冒頭、私たちは詩篇133篇の御言葉を読みました。そこにはこんな交わりの姿が描かれていました。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである(1,3)」。私たちは、誰もがそんな「交わり(共同体)」を求めているのではないでしょうか?そこに集うことによって、本当に心満たされ、胸おどり、いのちを経験したいのではないでしょうか?そのような交わりは、どのようにして生まれるのでしょう?

人の努力によってでしょうか?崇高なビジョンをかかげた、カリスマ性のある人が、熱意を持って行動を起こせば、そのような理想的な交わりが実現するのでしょうか?そのような努力によっても、一時的で熱狂的な何かが生まれるかもしれません。しかしそのような運動がたどる末路はだいたい似ています。最初のうちは純粋な理想を掲げているのですが、その中心人物が権力をもった瞬間、その人物の影響力を保つための共同体となってしまうのです。そこに本当の「自由」と「平和」はなく、あるのは「恐怖」と「支配」です。理想の根底に欲があるからです。

現代の教会でも、似たようなことは起こります。その人とっては、自分の「やり方」や「経験」そして「理想」こそが「神」なのです。そして自分の理想を中心とした教会を立てようとするのです。思い通りにならないと「この教会はなってない」「あの人(たち)は何でこう考えないんだ」と兄弟姉妹さばき、自分自身も喜びを失っていきます。気をつけて下さい。それは「支配欲」です。そういった「人間的な理想」は、共同体を「破壊」します。困ったことに、本人がそれに気づくことはなかなか難しいのです。本人は「純粋な理想」だと信じているのですから。

しかし反対に「理想がない」ことも問題です。今日読んだエゼキエル書にはこうありました。「実に彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう(10)」。この「彼ら」とは当時の預言者たちのことです。彼らは民にへつらい、本来は悔い改めを迫るべきところで「そのままでいいんだよ」と気休めをいい、危機が迫っていても「大丈夫だ」と預言していたのです。その「平安」は、まるで表面だけを「しっくい」で塗り固めた「壁」のようです。その内側は、もろく罪にまみれていました。

イエス様は、そのような偽りの平安を崩されます!マタイ福音書にはこうあります。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです(34)」。これはイエス様が、むやみに争いを起こされるという意味では決してありません。そうではなく私たちが、もし偽りの平安に安住しているならば、イエス様はその「平和」を崩され、私たちを本当の平和へと導いて下さる、という意味なのです。

本当の平和はどこから来るのでしょうか?それはイエス・キリストからです。エペソ書には「キリストこそ私たちの平和である(2:14)」とあります。また「敵意(罪)は十字架によって葬り去られ、キリストは平和を述べられました(2:16:17)」とも記されています。私たちは、十字架の赦しを体験することによってのみ、本当の平安を体験することができます。そして赦された者として、自分の十字架を負い、神と人とに仕えていく時、本当の意味で、平和をつくる者とされるのです。

一度塗り固めた「人生のしっくい」をめくることは、一度固まった「かさぶた」をめくるようなものです。それには痛みが伴います。時には、自分の意に反して、めくられてしまうことがあるかもしれません。しかしそこに「本当の癒し」と「平和」があるのです。

実に、彼らは、
平安がないのに『平安』と言っている。
しっくいで上塗りする者どもに言え。
『それは、すぐはげ落ちる』。
キリストこそ私たちの平和である。
(エゼキエル13:10-11、エペソ2:14抜粋)

2010年1月22日金曜日

習慣4-2「共に生きること」 マルコ 9:30-37

前回から「霊的成長をもたらす4つの習慣」の最後の習慣を学んでいますが、そのタイトルにもなっている「共に生きること」は、主の御心の中でも、最上位に属する事柄です。イエス様は私たちに、神を愛することと同時に、隣人を愛することを求められます。信仰とはきれいごとではありません。それは現実の生活の中で、隣人を愛することによって完成するのです。ですからイエス様は、そのことを学ぶために、信じる者たちが「信仰による共同体」を形成する事を求められます。イエス様ご自身も、弟子を訓練するにあたって、12人を選び、彼らといつも一緒に住み、御言葉を教えられました(マコ3:13)。人は交わり中で、「生きた信仰(いのち)」を学んでいくのです。

信仰の成長(成熟)には忍耐と時間が必要です。未熟な信仰とは、いくつかの言葉で定義できますが、その一つに「自分が何者であるのかわからない状態」ということができるでしょう。この時の弟子たちが、まさにそうでした。彼らは互いに「誰が一番偉いか」と論じ合っていましたが、実のところ彼らは、まだ何も分かっていなかったのです(マコ9:19)。例えばイエス様が「人の子は人々の手に引き渡されて、彼らはこれを殺す。しかし三日目によみがえる(30)」とご自身の十字架について真剣に語られているのに、彼らはそれを理解できず、ただ恐れていました。そして「誰が一番偉いか」という呑気な議論に明け暮れていたのです。

イエス様に「道で何を論じ合っていたのですか(33)」と尋ねられた時、彼らは黙ってしまいました。さすがの彼らにも、それが「さもしい議論」であることが分かったのでしょう。でもこれは人ごとではりません。私たちも、何者でもないのに「誰が一番偉いか」「誰が一番正しいか」などと、さもしい議論に走っていることはないでしょうか?口には出さなくても、心の中でそう感じていることはないでしょうか?人に何かを言われた時「あなたには言われたくない」と思うことはないでしょうか? それは結局「自分の方が上」だと思っているからではないですか?

交わりを破壊する思い、それは「誰が上か」との考えです。そう考え出したとたん、私たちの間には対立が生まれます。そして詩篇133篇に描かれている「麗しい共生」は、たちまちに打ち破られるのです。コリント人への手紙第一の中には、そのような悲しい状態に陥った教会の姿が記されています。彼らはめいめいに「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言い争い、誰が一番偉い、誰が一番正しいと、いがみ合っていました。でも彼らは肝心な事を忘れていました。教会は主のものであり、主の前に、自分達は何者でもないということを。そしてパウロやケパもその主のしもべにすぎないという事を、です。

そんな彼らにイエス様は教えられました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい(35)」。イエス様は「人の先に立ちたい」という思い自体を否定されませんでした。そこまで否定する時、おかしな禁欲主義になってしまうのでしょう。そこでイエス様は、もしそう願うなら「みなに仕える者となりなさい」と教えられたのです。そして子どもを呼び寄せ、この幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる。またわたしを受け入れる者は、神を受け入れると、教えられました。

己の身を低くしなさい。人に仕えることは、恥ずかしい事ではありません。人を赦すことは、損をすることではありません。新しい人を受け入れることは、自分の居場所を失うことではありません。他の人が自分よりも祝福される事は、自分がみじめになることではありません。◆ 思い切って、人を受け入れ、人に仕え、人を赦し、人を祝福する時、あなたは本当の意味で、十字架にまで従われた、イエス様を心に受け入れているのです。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、
みなのしんがりとなり、
みなに仕える者となりなさい。
マルコ9章35節

2010年1月20日水曜日

習慣4-1「共に生きること」 マルコ12:13-34

年も改まり、いよいよ「霊的成長をもたらす4つの習慣」の4つ目(最後)となります。それは「共に生きること」です。イエス様は「熱いか、冷たいか、どちらかであってほしい(黙3:15)」と言われましたが、それはまず「霊的(信仰的)に冷たく」あっては欲しくないということです。しかし「熱ければ良い」というものでもありません。的外れな熱心さほど、神様の御名を汚し、人を傷つける者はありません。戦争はいつも、間違った熱心さから生まれます。大切なのは、まずは正しく理解(しようと)すること。そしてそれを行動に移し、日常の生活の中で習慣化していくことです。そうすることによって、私たちの信仰は、本当の意味で熱く、成熟した者となるのです。

パリサイ人、ヘロデ党、そしてサドカイ人の熱心さは、的外れでした。イエス様は彼らに言われました。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか(12:24)」。これはサドカイ人に言われた言葉ですが、パリサイ人、ヘロデ党も同じです。彼らは確かに熱心でした。パリサイ人は律法尊守において熱心で、サドカイ派やヘロデ党は、政治的に熱心でした。そして彼らは、いつも、律法の解釈論争に明け暮れ、それぞれの立場を主張しあっていたのです。しかしそんな彼らが、今日の箇所ではイエス様を「陥れるために(12:13)」結託し、手を取り合って、論争を吹きかけているのです。なんと滑稽な姿でしょうか。

彼らの熱心さは、どこから出ていたのでしょう。まず一つは「間違った動機から」です。彼らは、非常に、宗教的に熱心なようでありながら、実は、ユダヤ教の主導権争いをしていたのです。ですから、そのためだったら(その主導権をイエスが奪おうものなら)手を取り合って協力し、イエス様を攻撃したのです。そしてもう一つは「間違った信仰理解から」でした。彼らはイエス様が言われた通り、聖書の言葉を知っていましたが、理解していませんでした。自分に都合のよい良いうに理解し、自分の義を立証し、他人を攻撃する道具としていたのです。そして何よりも彼らは、イエス様が「どなたであるか」を全く理解していませんでした。

それに対して、最後に一人の律法の専門家が立ちました。彼は、やり取りの一部始終を見聞きした上で、イエス様にこう質問しました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか(12:28)」。裏を返せば、イエス様があまりに見事にこたえられるのを聞いて「この方なら『一番大切なこと』を知っておられると感じた」ということです。これこそ、聖書を読む正しい態度です。自分の知識をひけらかすためではなく、他人を攻撃するためでもなく、神様のみこころ(一番大切なこと)を知りたいと切に願い、主ご自身を慕い求め、へりくだって読むのです。

イエス様は、その問いに対して、こう答えられました。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません(12:30-31)」。神様を愛することは、もちろん大切です。しかし、それは「あなたの隣人を、あなた自身のように愛する」ことにおいて完成するのです。この二つは表裏一体であり、切り離す事はできません。

あなたの信仰は、みこころにかなった信仰でしょうか。あなたの熱心さは、本当に神様への愛から出ていますか?それとも、自分の祝福のためや、自分のよい評判のためでしょうか?◆またあなたの熱心さは、隣人への愛となって実を結んでいるでしょうか?いつの間にか、あなたの信仰は、独りよがりになっていませんか?どうか私たちの信仰が、主への愛から生じ、隣人への愛と向かいますように。

イエスは彼が賢い返事をしたのを見て
言われた。
「あなたは神の国から遠くない。」
マルコ12章34節